ドリスは突然、デスクの後ろから出てきた。その時になって初めて僕は、彼女が椅子に座っていたわけではなかったのを知った。身長が140センチほどの人だったのである。
僕は彼女に訊いた。「ジョーンズさん、他の方々はどちらにいらっしゃるのでしょうか? このお仕事を手伝ってる方は? なんだかんだ言っても、4万人もの人々に報告書を送ってるわけですから」
「お若い方、仕事はぜんぶ私自身でしてるんですよ。他の人などいなかったでしょう? それに、報告書は1万通か1万2千通。双子には1通しか送らないし、その子供達には送らないからね。母親から話しをすればいいことだし。実際、ひと月あたり1千通くらいしてる。そういう仕事と、誰が生まれて、誰が亡くなったかの記録で、この60年余りずっと忙しいままなんですよ」
今度はドニーが質問した。「でも、数学的に考えると、この仕事、毎年、大変になって行きませんか? どんどん子供が生まれて、成長していくにつれて仕事量が増えて行くのに、どうやってこなせているのでしょう? それに、ちょっと失礼な言い方かもしれませんが、ジョーンズさん、あなたもだんだん年老いて行くわけですし…」
ドリスはちょっと微笑んだ。その笑顔は、石膏に押し型で作ったような表情だった。この女性はめったに微笑まないのだろう。
「私はね、まだ85歳なんですよ。まだ、十分、何年かは生きられます。でも、これは退屈な仕事でね。ずっと前から、いちどディズニーランドに行ってみたいと思っているんだけど、なかなか時間が取れないんですよ。そもそも、あまりお金もないのだけどね」
ディ・ディも質問した。「他にあなたのお手伝いをしてる人はいないのでしょうか? あなたが引退なさった後、誰が引き継ぐのですか? それに実際のところ、ジョーンズさん、あなたのお歳になったら、仕事はもうやめるべきですよ。仕事をやめて、ゆったりと残りの時間を楽しむべきだと思うの」
「誰かに引き継いでもらわないとね。主人が死んでから、私ひとり残ったものだから。私が逝ったら、この組織も終わりになるんじゃないかと心配してるんですよ。それはそうとして、あなた方、どんな用件でここに? これまで来客はあっても、みんな、お金をせびりに来る人だけでね。まあ、あなた方にあげられるお金はないんですよ。ごめんなさいね。全部、使ってしまったのでね。私も、かろうじて生活ができてるだけのお金しかないんです。あとは、主人が私に残したこの大邸宅にかかる税金を払うので精いっぱい」
ドニーが答えた。「私たちはお金をせびりに来たわけじゃありませんよ、ジョーンズさん。なんと言うか、観光のためですね。一度、ここに来て、どういうふうな運営になっているのか自分の目で確かめたかったんです。でも、正直、ジョーンズさん、あなたの方が援助を必要としているように見えますわ。私たちにできること、何かありませんか?」
ドリスは笑い出した。その笑い声は、黒板に紙やすりを擦りつけているような声だった。 「お金を出して私をこの仕事から免除してくれるというのはどう? それならあなたたちにもできること。私は一本とったかもしれないね? お若い方、私がこんなことを言うとは思っていなかったんじゃないのかね?」
僕は頭の中が考え事でいっぱいになっていた。ふと、この「次世代」の件をちゃんと遂行させるとしても、このドリス・ジョーンズさんはその事業を離陸させるにふさわしい人間ではないのではないか、と思った。僕自身もふさわしい人間ではないが、少なくとも彼女より余命は長い。
「ジョーンズさん、あなたから仕事を引き継ぐには何が必要でしょうか? 条件によりますが、私たちは、自分たちで組織を運営するのにちょっと興味があるので。すでに、もう、私たちは組織の一部ともなっていると言えますし」
僕はドニーやディ・ディの顔は見なかった。多分、二人とも僕がバカなことを言いだしたと唖然としているだろうなと思っていたから。