いや、僕の方なのか? 僕の最初の反応は、畏敬と驚きと不信と冷笑が混じり合ったものだった。冷笑の部分は、僕が気が狂っているのかもしれないという可能性から出た感情だった。いや、ただ単なる可能性じゃない。ほぼ間違いないという可能性だ。ある人の頭の中に、突然、他の存在が二つ侵入してきたとしたら、いちばん確かな説明は、その人の頭が狂ったということだろう。他の考えられる説明は、すべて、可能性の尺度上では「お前の頭は狂ってる」の隣にあるものと比べて、色あせてしまう。「頭が狂ってる」の説明だけが100%あり得るに近づき、他の説明は「ぜんぜんあり得ない」の領域に収まることだろう。
狂人が自分自身を診断するのは、医者の目には狂ったこととしか映らないというのは分かっているつもりだ。だが、狂人かも知れない僕自身の感覚としては、やっぱり僕は気が狂っているわけではないという感覚だ。客観的に自分の頭を考えてみると、僕は自分が狂っているようなことを何か考えたり、言ったり、行ったことがあるだろうか?
ちょっと考えてみよう。僕は10歳年上の女性と恋に落ちた。その後、その元の女性を完全に愛しつつも、彼女と瓜二つの双子の妹とも恋に落ちた。花形社員だった会社を辞めて自分でビジネスを始めた。ふたりの女性と結婚し、妻がふたりいる。その妻たちを説得して、シロアリしか育たない175年前からある農場の管理を引き受けさせた。85歳の老女が運営していた訳のわからない組織を引き継ぎ、僕のありったけの所持金に加えて、妻たちからも多額の資金を巻き上げ、それを投入し、崩壊寸前のおんぼろ邸宅を改修した。そしてあらゆるものを捨て、こともあろうにジョージアくんだりに引っ越してきた。こんな僕を気が狂っているなどと、どうして言えるだろう?
僕は自分の直感に耳を傾け、「自分が狂ってしまった」というシナリオを棚上げすることにした。さて、僕が発狂していないとすると、その次に最も考えられるシナリオはと言うと、僕が自分の子供の存在を感じたというシナリオである。
感じたと言ったが、はたして何を感じたのだろう? 僕は分析してみた。それは何か思考のようなものではなかった。もっと感情的なものだった。当惑、不思議さ、穏やかな驚き。そのようなものだった。
あれはテレパシーだったのだ。テレパシーという言葉であってるのだろうか? 仮にあっていなかったとしても、いまはあっているとしよう。あの二つの存在は、彼らの感情を僕に投射していたのだ。これは考えられる理論の一つにすぎないが、僕の理論はと言うと、この二つの存在、二つの種子、未来の人間は、まだ意識を持っていない。というか、少なくとも意識的な思考はしていないのだ。彼らにできることは感じることだけなのだと。これで正しいだろうか?
おそらく彼らは子宮のなかでは意識を持っている。これはほぼ確かだ。さもなければ、お腹を蹴るといったことが説明できない。だが彼らは思考することはできるだろうか? 彼らにはまだ言語はない。温かな水の中に浮いて、肉壁を通してゴボゴボした音を聞きながら、自分たちの母親の心臓の鼓動を間近に感じているだけ。ふたりはディアドラの中にいるのだ。自分の経験から言って、ディアドラの中は最高だ。だから、ふたりとも天国にいるような気分だろう。あそこに比べれば、他の場所は悪くなるばかり。その事実から目を逸らしてはいけない。
このテレパシーは一方通行なのだろうか? 僕はふたりを感じることができるが、彼らは僕を感じることができるのだろうか? 僕はすでに圧倒的な感情がこみあげてきて、感動に包まれつつあった。