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「では、来週の同じ時間に」
「ありがとうございます、ベック先生」
アンジェラは、患者が部屋を出て行くのを見ながら、とてもお腹がすいているのに気がついた。だが、外の嵐はやみそうな気配がない。普通なら彼女はワーバッシュ通りにあるお気に入りの小さなベーカリーで食事を取る。だが、この天気を見て、彼女はこのビルの下の階にあるレストランで済まさなければいけないだろうなと思った。
アンジェラは、そのレストランに入った時、ランチタイムだと言うのにほとんど客がいないのを見て驚いた。この広いスペースに他の客はたったひとりだけだった。この店には来たことがなかったが、内装からすると、ある種のアジア系の料理を出すところだと思われる。10分ほど待った後、ようやく中国人風の女の子がメニューを手にやってきた。
「何名様ですか?」 と明るい声で娘は訊いた。
「あの、私だけなんです」 と、こんな広い場所でひとりだけで食事をするのはちょっとバカみたいと感じながら答えた。
「ではご案内します」
娘はアンジェラを巨大な水槽の前の席に案内した。「ご注文が決まりましたら、お知らせください。お食事の前にお茶はいかがですか?」
「お願いします」
アンジェラはメニューを眺めながら、こんなにお腹がすいてしまって困ったなあと思った。彼女は、これほど空腹になってしまうといつも食べ過ぎてしまうのである。午後の診察時間に、満腹で苦しみながら患者の話しを聞くのだけは避けたかった。
どうやらこの店は想像した通り、アジア料理全般を扱う店らしく、メニューの写真が信じられるなら、酢豚風鶏肉炒め(
参考)が特に美味しそうに見えた。
ウェイトレスが戻ってくるのを待ちながら、彼女は、テーブル二つ向こうにいる男性に目をやった。その人も東洋人で、書類の山に覆いかぶさるようにして何かをしていた。染み一つない黒のスーツに身を包んでいるが、特に印象深いのは、彼の髪の長さだった。背中の半分までの長い髪で、ゆったりとしたポニーテールにまとめている。それに短い髭を生やしているのも、アジア系の人にしては珍しかった。
アンジェラは気づかぬうちに長いこと彼をじろじろ見ていたに違いない。視線を感じたのか、男が突然、彼女の方を振り向いた。そしてアンジェラはその男の瞳が青いのを見てびっくりした。それにもまして彼女が驚いたのは、彼の顔に、彼女のことをすでに知ってたような表情が浮かんでいたことだった。
「ご注文はお決まりですか?」
「は?」
アンジェラは青い目の男を見るのに忙しすぎて、ウェイトレスが来ていたことに気づかなかった。
「あっ、えっと、酢豚風鶏肉炒めをお願いします」
「かしこまりました」 ウェイトレスはメニューを取り、厨房へと姿を消した。
アンジェラが男のいた席に目を戻すと、そこには書類の山はあるものの、男の姿は消えていた。「え? いったい…」
「同席しても良いですか?」
アンジェラは望む以上に大きな悲鳴を上げていたかもしれない。あの男性が突然、自分のテーブルのすぐ脇に姿を現したからである。
「ごめんなさい。怖がらせるつもりはなかったのですが」
これがカラーコンタクトだとしたら、是非ともこの人の検眼師の電話番号を教えてほしいと彼女は思った。とても本物らしく見える。レンズの輪の線すら見えない。それにちょっと灰色のポツポツも混じっている。薄青の色が絶妙。こんな薄青の目を見るとしたら、インの目か、ある種の犬の目でしか見られない。
「大丈夫ですか?」 アンジェラが茫然と見つめていた瞳の持ち主が、問うように彼女を見つめた。
ぱちくりと数回まばたきし、アンジェラは自分が男性の瞳を見つめていたことに気がついた。
「まあ、私、ごめんなさい。ええ、大丈夫です」
彼がまだ彼女の返事を待っていることに気づき、アンジェラは反対側の席へと手招きした。
「どうぞ」
男性が滑らかに椅子に座るのを見ながら、何を言ってよいか分からず、彼女はたわいない話しを始めた。
「こことても広いですね。でも、どうしてこんなにお客さんがいないのかしら? ここの料理、美味しくないのかしら?」
「大丈夫ですよ」 と男は言った。
日本人だわと彼女は思った。英語は欠点なしだけど、訛りがあった。でも、ゴージャスという言葉が声についても使えるとしてだけど、彼の声はゴージャスだった。深く、絹のような声であると同時にザラザラした感じもある。彼の瞳と同じく茫然とさせるところがあった。
「いまは休業してるのでお客さんがいないのです」
アンジェラは男が見ている方向に目を向けた、そしてそこに「クローズド」のサインが出ているのを見た。
「じゃあ、どうしてあの子は私を席につけたのかしら? それにあなたもどうして?」
男は唇の角を少し上げて、小さく微笑んだ。「私が彼女にそうするように言ったからです。私はこの店の店主なのです」
困惑と驚きを同時に感じつつ、アンジェラは衝動的に言った。「なぜ、彼女にそうするように言ったの?」
「あなたがお腹がすいているように見えたから」
「私が?」
アンジェラは自分がお腹をすかして哀れな姿を見せていたのを想像し、どういうわけか可笑しくなり、笑い出した。
「笑い顔が素敵ですね」 と男は彼女をほめた。
その言葉に驚いてアンジェラは何と返事してよいか分からず、ただ「ありがとう」としか言えなかった。