彼は少しだけゆったりと座る姿勢になり、アンジェラの顔をまじまじと見た。
「韓国人ですね」 疑問文と言うより断定文に近かい言い方だった。
「ええ、そうです。どうして分かったんですか?」
この人は変わった人だけど、どこか魅力的なところがある。それにとても観察力があるようだ。そのことがかえってアンジェラの好奇心を駆り立てた。
「あなたは、ずっと前に私が知っていた人に似ているのです。その女性は…韓国の人でした」
韓国の人という言葉の前で少し間をおいたことが、奇妙に感じられた。
「そのお方のお名前は? …ひょっとして私と関係がある人かも」と彼女は微笑んだ。
「いえ、その人の苗字は知りません」
この人はその女性のことをそれほどは知らなかったのね。
「それにしても、ここの席で食事をさせてくれてありがとう。とてもきれいね。こんな素敵な水槽を見るのは初めて」 と、アンジェラは、水槽の中を泳ぐ棘のついた斑点の魚を眺めた。「この魚は?」
「ホウボウと呼ばれてます。非常に危険ですよ。恐怖を感じたら、人の指を食いちぎってしまうこともあります。…それに、こちらこそ、店に来ていただいてありがとうございます」
「アンジェラと言います」 と彼女は手を差し出した。
「アンニョン[Ahn-young こんにちは]、アンジェラ。私はノブと言います」 と彼は彼女の手を握ったが、手を振ることはしなかった。
「韓国語を話すの?」 アンジェラは驚いた。彼の手はとても温かかった。
「ええ」
「どうして? あなたは日本人じゃないの?」 彼は依然として彼女の手を握ったままだった。
「私の訛りはそんなにひどいでしょうか?」 ノブは目を輝かせ、楽しそうに訊き返した?
アンジェラは、時々、会話の流れを追うのが難しくなっているのに気づいた。彼の顔を見たまま、うわの空になってしまうからである。
「い、いいえ。あなたの訛りは大丈夫。もっと言えば、私の好みだわ。どこか、黒澤映画を見ているような感じになるから」
「侍の映画が好きなのですね」
「ええ、そうなの」
ノブがその先を訊こうとしたとき、彼女の料理が届いた。それは、アンジェラに握られていた手を離す口実を与えることにもなった。
「まあ、美味しそうな匂い!」 そう言って、食べ始めようとしかかって、彼女はノブを睨みつけた。「あなたは食べないの?」
「私はもう食事は済ませたもので。ありがとう」 と彼はくすくす笑った。温かく、楽しい感じの笑い方だった。「でも、どうぞ、食事を続けてください。お気にせず」
アンジェラはむしゃむしゃ食べるところを見られないようにと気にして、半分ほどで食べるのをやめた。
「ここの料理のお値段、ずいぶん控え目すぎると思うわ。こんなに美味しいのに!」
青い瞳が興味深そうに彼女を見つめた。
「では、どうして食べるのをやめてしまったのかな?」
アンジェラは笑いだした。「だって、お腹がいっぱいになったんですもの。これ、持ち帰ることにするわ。後で夕食のときに食べられるように」
「わざわざそうしなくても」
「というと?」
「残り物を食べなくてもよいということです」
「どうして? 私、ドギーバッグ(
参考)が大好きなのよ」 とアンジェラは笑顔で答えた。
「あなたが冷たくなったものを食べると思うと私が嫌だから」とノブも笑顔で答えた。「夕方、夕食時にまた来てください。そうすれば何か温かいものを食べられますよ」
「今夜はお店を開けるの?」
「…あなたのためなら」 と彼は小さな声で言った。
「まあ、そんなことすることないのに。とても、面倒なことのようだわ」
この人はとても親切だし誠実な人だとアンジェラは思い、彼の申し出を断ったものの、悪い気はしなかった。
「では、私の家に夕食に来ませんか?」 と、ノブは手を伸ばし、再び彼女の手に触れた。
びっくりすることが次から次へと起きる。
「ノブ? 私をデートに誘ってるということ?」 アンジェラは自分の手に乗せられている彼の手を見ながら、冗談っぽく尋ねた。
「私と夕食をご一緒していただけるなら、デートと呼ぼうが何と呼ぼうが、私は構いません、アンジェラさん」 とノブは手を離しながら、温かく答えた。
「どこに住んでるの?」
「ここです」
「このレストランに?」
ノブは楽しそうに笑いだした。
「アハハ、いいえ違いますよ、アンジェラ。私はこのビルに住んでいるんです。50階以上はすべて住居になっていますから。それで、今のはイエスという返事ですか?」
アンジェラは、彼のチャーミングな物腰にノーとは返事しづらいと感じ、自分も笑いながら、頭を縦に振った。
「何時頃行けばいいかしら?」
「もしよろしかったら7時に来てください。ドアマンが階上へ入れてくれるはずです」
「ドアマンには何号室と言えばいいのかしら?」
「ペントハウス」 とノブは立ちあがりながら言った。「あなたもこのビルで働いているのですよね?」
アンジェラは彼の言葉に思わず上ずった声を出しそうになっていた。「え、ええ」
「それじゃあ、今夜、楽しみに待っています」 とノブは元いた自分の席へと歩き始めた。
「あ、ちょっと待って! どうして私にお食事を?」
ノブは何でもないと言わんばかりに手を振りながら腰を降ろした。
「そんなことは気になさらずに。7時に待っていますね」
アンジェラは職場に戻る時間になっていたのに気づき、感謝の気持ちで笑顔を見せ、店を出た。
アンジェラが店を出るのを待ち構えていたかのように、ウェイトレスが出てきて、にこにこ笑いながら店主をからかった。
「ヘイ、ボス! ずいぶん順調そうだったじゃない」
「フザケンナ[Fuzaken-na]、メイ」
メイは唇を尖らせ、両手を腰の両脇に添えて胸を張った。
「ボス、運が良かったんだから。私が給料をもらいにここに立ち寄らなかったら、ボスが自分で料理しなくちゃいけなかったんだからね。そうなったら、あんなにあの人と話していられなかったんだから」
ノブはまた笑い出した。「アハハ、アリガトウ[Arigato]、メイ。もう帰っていいよ」
「じゃあ、また月曜日に」とメイは手を振り、出る間際に一言、「デートうまくいくといいね!」と言った。
「バカ[Baga]!」
ノブは唸り声を上げたが、メイはくすくす笑い、ドアから軽い足取りで出て行った。そして、彼も店を閉め、最上階にある自分の住まいに戻った。
部屋に入ると、ノボルはベッドに座り、顔面を両手で覆った。自分を抑えこもうとしてだった。彼女と話している間、落ち着いた外面を維持していたが、これがいかに大変だったか。まるで時間をさかのぼったような感覚だった。あれから経過した400年以上の時間。それが消えてしまったようで、彼女に初めて会ったのがまるで昨日のことのように思えた。彼女が帰った後も、まだ彼女の匂いが嗅ぎとれた。テーブルを飛び越え、彼女に襲いかかることを堪えるのが精いっぱいだった。
…気をしっかり持つんだ、とノボルは自分に言い聞かせた。はたして俺は7時まで持つんだろうか? 不安になった彼は、多少、運動をすれば神経のエネルギーをいくらか弱められるかもしれないと思った。不適切に振舞って彼女を怯えさせてしまうこと。それだけは望まぬ彼だった。
つづく