この日、午前11時に仕事をクビになってから、ずっと家でごろごろしてたから、多分、新鮮な夜の空気を吸えば気分も良くなると思った。早秋の宵で、トリキシーと出かけた時には、すでに辺りは暗くなっていた。ちょっと寒くて、何か温かい服を着てくるんだったと思った。トリキシーが用を足したら、すぐに帰ろうと思った。
少なくとも、近くに散歩するのに手頃な場所があった。あたしが通っている(いや、通っていた)大学である。丘の上の中規模サイズの公立の大学。樹木がたくさん植えられている。あたしとウェンディは街の中でもわりと静かな通り沿いに暮らしているのである。
金曜の夜なので、大学生がたくさんうろうろしていた。
新入生たちは、嫌いな人が誰かが分かっていないのか、大人数で集団行動をしていた。薬中の連中は、芝生に座って宇宙のことについて議論していた。ガリ勉学生は、学生組合でロールプレイのゲームの準備をしていた。そして、他の何よりたくさんいたのが、パーティに行こうとしている男子学生と女子学生たち。
誰もが落ち着いて幸せそうだった。この幸せそうな人たちが、あたしと同じ世界に住んでるなんて理解できない。確かにあたしの中の一部は、あたしは、ここにいる人たちのように振舞い、彼らの中に溶け込みさえすればいいと知ってるけど、気持ち的には、どうしてもそうできないのだった。あたしは、できる限り自分を小さく見せて、足元を歩くトリキシーのことだけを見て歩いた。誰もあたしのことに気づきませんようにと祈りながら。
トリキシーは、ようやく良い場所を見つけたようで、郵便ポストの近くに駆け寄り、用を足した。こういうことにかけてはトリキシーは割と素早く行うので、安心できる。
そしてあたしたちは方向を変え、家に戻り始めた。でも、帰宅の途に着くとすぐに、突然、頭上で耳をつんざくような音が鳴り響いた。肌に鳥肌が立ち、あたしは文字通り地面にしゃがみ込んだ。何が起きたかさっぱり分からない。でも、すぐにその答えが出てきた。暖かいのどかな夜だったのに、一瞬にして、凍えるように冷え込み、滝のような土砂降りになったのである。
文字通り、滝のような土砂降りだった。すぐに道路には雨水が溢れだし、歩道にまでせり上がってくる。トリキシーは半狂乱になって、ぴょんぴょん跳ねまわり、狂ったように吠えていた。あたしはどうしてよいか分からず、両手を頭の上にかざしたけど、手では小さすぎるし、そうするのも遅すぎた。あっという間にずぶ濡れになっていた。
あまりに突然の土砂降りで、ちょっと凍りついていたけど、ようやく気持ちが落ち着き、あたしは家への道を歩き始めた。走って帰ることも考えたけど、どの道、すでにもうずぶ濡れになっている。あたしは両腕を胸の前で交差させ、うつむいた姿勢で歩いた。想像できると思うけど、これがあたしの普段の姿勢なのだ。トリキシーは水たまりを見つけ次第、そこにジャンプしようとしたけど、あたしはリード紐を短く持って、それを防ぎ、ともかく家路を急いだ。
家まで2ブロックほどのところに来た時、道端の消火栓のところに男がふたり立っているのを見かけた。ふたりとも雨のことは全然気にしていないようだった。慌てて歩く人々を見て大笑いしている。
あたしは、あの人たちに気づかれたくなかった(というか、誰であれ、あたしは人に気づかれたくない)。なので、歩道の端の方に寄って、できるだけふたりから離れるルートを取った。近づくとふたりの話し声が聞こえた。
「いや、マジで。これほどいいプランは考えられねえって!」とひとりが言い、もう一人が笑った。
「本当だぜ。タダでずぶ濡れTシャツ・コンテストを見られるんだからな。でもよ、急な土砂降りになった時に、俺たちが、女子寮がある通りにいる確率って、やたら低いんじゃね?」
「特に、みんなが、どういうわけか、白いTシャツを着てるとなると、かなり確率が下がるな」
あたしは歩きながらふたりの視線を追った。見てみると、通りの反対側を、女子寮に住む学生が10名ほどキャッキャッと笑いながら走るのが見えた。全員、白いTシャツを着ていて、走るのに合わせて、胸がぶるんぶるん揺れているのが見えた。このふたりの男たちは、それに目を奪われているようだった。多分、あたしも目を奪われていたと思う。ふたりから離れて歩こうとしていたにもかかわらず、気づいたら、彼らのひとりに身体を擦りそうになっていたから。
「あ、ごめんなさい」と呟いた。
「いいってことよ、お兄ちゃん」
それを聞いて顔が赤くなるのを感じた。もう一人の男が振りむいてあたしを見た。
「おい、あいつ女だぜ」
するとふたりともあたしに顔を向けた。あたしが白いTシャツを着ていたのは見ていたんだろう。すぐにふたりの視線があたしの胸に向けられた。そして、あたしにはすっかりお馴染みのがっかりした表情がふたりの目に浮かぶ。ふたりとも、すぐにあたしから視線を外した。
「ああ、いいってことよ、お嬢さん」
この「お嬢さん(Miss)」って言葉は、男子寮の学生風の男が使う場合、一番セクシーからかけ離れた言葉と言ってよい。この男に12歳の妹がいて、その妹の友達か何かに対して使う言葉だ。あたしは、目を落として、ふたりが見ていたところを見た。シャツがずぶ濡れで、胸がぺちゃりとなっているのが見えた。小さな乳首の突起が見えた。だけど、他は何もない。乳房があるべきところに、まるで何もない。多分、両脇にかけて、あばら骨も見えているかもしれない。
あたしは、ふたりを見て、彼らが道路の向こう側の女の子たちを見ていても咎める気すら起きなかった。トリキシーのリード紐を引っぱり、雨がなかなかやみそうもないこともあり、できるだけ急ぎ足で家に向かった。
家の中に入ったとたん、外にいる間ずっと溜めこんでいたストレスが一気に噴き出した。他人目の多い街に出る不快さ、他人の目にじろじろ見られる感覚、みんながあたしを笑っているような感覚、そして、とどめがあの侮辱。最もエッチな気分満々の、最悪バカと言える学生の目にもあたしがぜんぜん性的に魅力がないと思い知らされた侮辱。トリキシーのリード紐を床に落とし、トリキシーが雨水をふるい落とすためにキッチンへ走っていくのを見ながら、あたしは喉の奥から叫び声が募ってくるのを感じた。
「もうイヤ! 素敵なおっぱいができるなら、こんなあたしの魂なんか売り飛ばしても構わない!」
思いっきり叫んでいた。自分の声だけど、何か心の奥底からの原始的な叫び声のように聞こえた。その声が廊下に鳴り響くと共に、心の中のストレスが身体の中からゆっくり消えて行くのを感じた。
強い雨が家の屋根を叩くのが聞こえ、自分は家の中にいるんだと知った。ウェンディは遅くまで帰ってこないだろうし、あたしはしばらくこの家に独りでいるだろう。さっき受けた侮辱に、顔はまだ赤いままだったし、焦燥感からちょっと過呼吸になっていたけど、それでも、少し落ち着いた気持ちになっていた。
「もう、ラリッサったら! 自分をしっかり持って!」 あたしは自分に言い聞かせ、頭を振って、あたしはどうしてしまったんだろうと思った。こういうことには慣れていると思っていた。不安感が悪化しているの? そんな感じを振り払い、トリキシーがぶるぶるして水だらけにした後始末をするためにキッチンに向かった。
キッチンじゅうの水を拭きとるのには時間がかかった。でも、それは良かったと思う。悩み事を忘れることができたから。全部、拭き終えたけど、辺りじゅうが濡れた犬のような匂いがしていた。顔を上げるとトリキシーがあたしのことをじっと見つめていた。あたしはトリキシーに微笑みかけ、バスルームに連れて行き、お風呂に入れてあげた。トリキシーを洗って乾かした後、自分も服を着替え、髪を乾かした。
すべてが終わった頃には、すでにずいぶん夜遅くになっていた(多分、11時ごろ)。ということは、この数時間ほど、気持ちを落ち込まさせずに何とかやり過ごせたことになる。これは良い兆候だと思い、この機会を逃さず眠ってしまうべきだと思った。そして急いでベッドにもぐった。
でも、もちろん、忙しく動きまわることがなくなるとすぐに、いろんな思いや心配事が戻ってくる。ウェンディのことを考えた。いま頃、何をしてるんだろう? あの二人組の男子寮の学生は、いま頃どこにいるんだろう? それに大きな胸をした女子寮の娘たちは、週末の夜11時にはどこで何をしてるんだろう?
さっきまでとは違って、周りにあたしを見てる人が誰もいなかったこともあって、強烈な負け犬感覚には襲われなくなっていた。ただ、悲しい気分。
でも、そんな悲しい気分に浸ることはせずに、代わりに比較的鮮明な空想へと滑り込んだ。あたしが、いろんな人がいっぱい来ているパーティに出かける夢。みんな、あたしに話しかけようとしている。どんなふうに見えてるか、お化粧はうまくできてるか、あたしの意見を聞きたがって、あたしに話しかけてくる夢。あたしはみんなとお話しするのに大忙し。一種、みんなの注目を一身に集め、その注目に浸っている感じ。
こういう空想をしていると、普通、首尾よく眠りに落ちることができる。あたしは目を閉じ、ゆっくりと眠りに落ち始めた………
突然、何かぐらぐら揺り動かすような衝撃が起きた。外にいた時に受けた雷鳴よりも10倍は大きな衝撃!
ハッと目を開け、素早く起き上がった。心臓がバクバク言っているし、全身にアドレナリンが流れ渡り始めるのを感じた。一瞬、自分がどこにいるのか分からなくなった。特に、この音が雷ではないと知ったことで、わけが分からなくなっていた。この音は、想像できないほど奥底から鳴り響く感じではあったけど、あたしのこの部屋から出た音であるのは確実だった。
その轟音がどこから出ているか、すぐに分かった。ベッドで起き上がってすぐ後に、バリバリと割れるような恐ろしい音がして、あたしの部屋が一瞬にして煙に包まれたのだった。でも、普通の煙じゃなかった。硫黄の匂いがすごい。
家の中で何かの火事が起きたんじゃないかと思った。確かに、部屋が熱くなってるように思った。ベッドの右側から熱が来るように感じる。そっちの方向に目をやって、あたしは思わず口をあんぐりさせていた。無意識のうちに、頭を左右に振っていた。
見ているモノが信じられない。床のど真ん中に、突然、大きな穴ができていて、口をぱっくり開けていたのだ。そこから硫黄の煙を吐き出している。中はオレンジか赤い色に光ってる。狂ってるとしか思えないことは、その穴の奥が見えたこと。少なくとも部分的にだけど。
あたしに見える限り、その穴はずっと奥まで続いているようだった。確かに、あたしの寝室は家の1階にあるけど、この家には地下室なんかない。AとBのふたつの考えをつなぎ合わせることすらできなかった。頭の中がぐちゃぐちゃで、ただ頭を左右に振ることしかできなかった。ありえないって。
すると、急に地割れするような音が止まり始め、床の穴も輝きを止め始めた。今度は別の音が聞こえてきた。床の穴から、煙と明かりと一緒に、急に恐ろしい唸るような、あるいは叫ぶような声が聞こえてきたのだった。まるで千人の人々がいっせいに苦痛にうめきだしたような声。肌がぞわぞわとなって、何よりもまずここから逃げ出したくなった。でも、身動きできない。
穴からの明かりが急に消え、部屋全体が真っ暗になった。うめき声はますます大きくなってくるし、硫黄の匂いもどんどんきつくなってきた。
そして、次の瞬間、うめき声が止まったし、硫黄の匂いも消え、部屋の電気の明かりがいっせいに戻ったのだった。
すぐにあの穴に目をやった。でも、穴はまだある。今は真っ暗で、前より不吉に見えていた。穴の奥は見えない。もはや輝いていないから。穴があるということは、これは想像ではないんだ!
「えっへん!」
急に声がして、あたしはビックリして跳ねあがった。声がしてきたのは、穴からではなく、ベッドの先から! 床の穴にばかり気を取られていて、誰かが部屋に入っていたことに気づかなかったのだ。いや、誰かと言うより、何かと言うべきかも。
ベッドの足先のところに立っていたのは、あまりに奇妙で予想外だったので、自分の目で見てるのに、信じられなかった。
声は女性の声。とてもセクシーな女性の声。古い映画スターのような、低くてハスキーな声。その声を生み出した生き物は、確かに、そういう声にふさわしい姿をしていた。おおまかに言って、その生き物は美しい女性のように見えた。彼女は(「彼女」って呼ぶけど、他に何て呼んでいいか分からないし)信じられないほど長いストレートな黒髪をしていて、大きな黒い目をしていた。鼻は小さく、唇は真っ黒で、まるで炭で(でも魅力的に)塗ったみたい。その奥の歯は黒い唇とのコントラストで、ものすごく白く見えた。顔は、角ばった特徴や、黒い目、それに鋭い歯先とあいまって、恐ろしいけど、同時に美しい。
身体に目を向けると、ただただ驚くばかり。首は長く細くエレガントで、両腕も細く女性的な腕。肩はほっそりとしてるけれど、スポーツウーマンの肩のようでもあった。胸は、黒いビキニのようなもので覆われていたが、そのわずかな布地の中からたわわにはみ出しているようにも見えた。お腹は平らで、下着のモデルのように、おへそのところを露出していた。腰は見事に女性的な広がりを見せていて、ミニスカートの下、腰のところに鍛え抜かれた筋肉も見える。脚は細く、長く、小さく女性的な足先へとつながっていた。
この時点であなたが何を考えているか、あたしには分かる。よくアニメやSFモノに出てくるような妖艶な美女を思い浮かべているはず。そういう想像は珍しくない。そういうキャラは山ほどあるから。そして、部分的にはその想像は正しい。でも、あたしはいくつか述べていなかったことがある。
ひとつは、彼女の肌の色。真っ赤なのである。彼女がアイリッシュ系の女の子のようだと言っているわけではない。本当の意味で、真っ赤なのである。頭の先からつま先まで、同じトーンの真っ赤。肌で赤じゃないのは、さっきも言ったように唇とまぶただけ。
髪の毛は長い黒髪と言った。でも、その髪の毛がこめかみから上のところで、直立してるのは言っていなかった。髪がまとまって左右に分かれ、15センチくらいの角になっているのだ。角の先は若干、内側に曲がっていて、左右の角先が向きあう形になっている。
そして、一番、異色なのは、彼女の後ろにある、お尻のところから真赤な尻尾が生えていて、その先端が矢先のような形になっているのだ。
要するに、彼女は美女だけど、とても恐ろしい美女。