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自分が誰が考えても「ノーマル」とは言えない存在だと気づいたあの瞬間。あれは不思議な瞬間だった。私たち人間は、生物種として、すべてを小綺麗で、簡単に認識できる箱の中に収めようとする衝動をもっている。そして、その指定された分類箱の外にこぼれ落ちるものはどんなものでも、間違ったものに違いないと認識する。人間はそういう衝動を必要としているのだろうとは思う。あの二者択一に分ける思考プロセスを。正しいか間違っているか。善か悪か。ノーマルかアブノーマルか。黒か白か……そういうふうに考えるように私たちは訓練されてきている。

この考え方は私たちを縛り付けている。誰もが、それは非合理的な世界の見方だと知っている。それにもかかわらず、私たちは、単に他の方法を知らないがためだけに、その考え方を続けている。これとは対照的に、ひとりひとりの個人としてのアイデンティティを認識することは、これよりはるかに難しい考え方なのだ。そのため、私たちは、すぐ目の前にあるものを無視し続けるのである。

簡単な二者択一的分類を好むという傾向が最も顕著になるのが、ジェンダーを考えるときである。男性。女性。その中間は存在しない。男性は強く、逞しく、毛深く、支配的に振る舞う。女性はしなやかで、柔らかく、美しい……「より美しい人」。体の曲線が豊かな男性を想像することはできないし、強くたくましい女性は異端な存在と見られる。私たちは、文化の一環として、男女それぞれがどんな特質を表してほしいのかについて、前もって決められた考え方を無視できないようにされている。

それでは、それによると、私はどこに位置づけられるのだろう? 外見は明らかに女性的である。たいていの人は、私は女性のあるべき姿をすべて具現していると言うだろう。でも、その後、彼らはより近づいて私を見る。彼らにじっくりと見られることを私は嫌悪する。それというのも、その結果、どういうことになるか知っているからだ。質問を浴びせられるのだ。ああ、あまりにも多くの質問。

そういう時、私は自分が彼らの箱に収まっていないことを知る。彼らにとっては、私は変人なのだ。彼らは、脳の配線が普通じゃないと、こうなるのよと警戒するような言い方をする。あるいは、私の両親が私に人形遊びをさせていたから、こんなふうに育ったのだと彼らは思う。あるいは、私は変態なのだと。あるいは、私は何か遺伝的にホルモンのバランスが悪いのだと。彼らの使う言葉に私は吐き気がする。

私は彼らと全く同じ人間なのだ。私の足の間にあるものがそれほど重要だろうか? 私は他の誰かを傷つけてはいない。遺伝的? 心理的? 生まれつきか育ちのせいか? それらすべて、何とも大笑いとしか言いようがない。それは私が何か問題があると仮定しての表現であるからだ。

私には問題はない。私があなたの考えるノーマルの範疇に当てはまらないからと言って、それは私の人生や私が存在する権利を無効にするものではない。この世界は私の世界でもあるのだから。

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[2017/11/03] 本家掲載済み作品 | トラックバック(-) | CM(0)

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