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56_Hope 「希望」
客観的に言って、あたしは可愛いと思う。多分、綺麗だとも言える。人はあたしを見れば、ゴージャスな女がいると思う。誰も、あたしを男だとは思わない。でも、あたしは、自分がかつて男だったと知っている。自分がどんな人間だったかを覚えている。
この種の自己に関する不安感は普通の人も抱いているものだ。あたしは、そう考えて自分を落ち着かせる。この不安感、普通だとは言えないとしても、少なくとも理にかなっているのは確か。あたしは苦悩、拷問、揶揄、嘲りの年月を忘れることができない。イジメを受けた経験、たいていは言葉によるイジメだったが、それが今もあたしにこびりついている。肉体的な暴力は、傷については数日で直るけれど、それを受けた経験自体は今も心の中に残っていて、普段は離れたところに潜んでいるけれど、時にあたしの思考に顔を出してくる。
あたしは、自分が壊れていて、今の生活を送られていることがいかに幸運であるかが認識できなくなっているのではないかと恐れる。自分は幸せであるはずだと思いつつも、満足と言える状態を達成することから遠く離れていると認識している。これはフラストレーションを高める状態だ。
あたしは、自分が演じているような人間になりたい。愉快で、社交的で、こだわりがなく、自信にあふれた人間。人生の半分を別の人間の肌をまとって生きてきた人間にとって、モノマネをすることは簡単だ。あたしは仮面をかぶっている。そして、その仮面にふさわしい生活を送っている。だが、それは外面にすぎない。自分はノーマルなのだと自分が納得できるよう計算した行動にすぎない。でも、本当のあたしはノーマルではないのだ。それは否定できない。
むしろ、単純に、自分がノーマルではないことを認めて、ノーマルでない生き方をし、どういう方法でかは分からないけど、ノーマルではないという真実がしつこく顔を出してくることに対処する方が健康的なのではないか。そう思うことがよくある。多分そうなのだろう。
でも、あたしにはそれができない。あたしは生活していかなければならないし、この容貌を維持し続けなければならない。非常に多くの人々にとって、あたしという存在は非常に大きな意味を持っている。ひょっとすると、どこかにあたしのような別の10代の若者がいるかもしれない。彼はあたしと同じ生活をしている。彼はあたしと同じ痛みを感じ、同じ苦難を味わっているかもしれない。彼の不安感はあたしの不安感の丸写し。ひょっとすると、彼は、あたしを見ることで、あたしの仮面を見ることで、あたしよりも良く適応した人間になれるかもしれない。もしそうなら、あたしの生き方も価値があることになるだろう。
それが、大事なこと。そうじゃない? 希望。今より良くなろうと人を駆り立てるもの。それが希望。あたしたちは皆、次の世代の良き見本にならなければならない。あたしたちは、次の世代の人々に、あたしたちが世界に溢れるヘイトや、性差別主義や、イジメに屈することがないことを示さなければならない。だからこそ、あたしは誰もに注目を浴びる人になりたいと思っている。だからこそ、あたしは努力を続けている。