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65_Not too late 「遅すぎることはない」
それは誰にでも難しいことだと思う。みんなの顔にそれが浮かんでいる。外見は、いかに支援的に見えていても、本当のところは理解していない。妻も、子供も、友人たちも含めて、誰も、どうして私がこれをしたかを理解していない。それに、私自身、適切には説明できない。たとえ説明できたとしても、それは何の役にも立たないのではないかと疑っている。
妻は、これまでずっと私を助けてくれてきたけれども、分かっていない。私を見るときの妻の表情、愛情と言えるものを一切欠いた表情を見るまでもなく、私たちの結婚は長続きしないと分かる。
先日、妻が友人に、そもそも、どうして私が彼女と結婚したのかを尋ねているのを立ち聞きした。彼女には、私が誰かということが、私が誰を愛するかに影響することはないことを理解していない。私は、本当に妻を愛しているのである。私は、自分が妻も愛し返せるタイプの人間になれたらいいのに、と心から願っている。
子供たちは、ありがたいことに、非常に進歩的になりたいと思っている。私をサポートしたいと思っている。これはすべて良いことなのだと思いたがっている。でも、私は、子供たちが、もはや、私のことを父親とすら思っていない事実を無視できない。子供たちにとっては、私のことをまったく異なった人間として見る方が容易いのだろうと思う。確かに、子供たちは私のことを愛してくれてはいるが、自分の親とは見ていない。もはや、私のことを何と呼んでよいのかすら分からないのだ。
なぜこんなに長く待ったのかと、訊かれた。しかも、古くからの友人たちに、何回か。私の年齢では、女性化は簡単ではない。そもそも簡単ではないけれど、これは、年齢が増すごとに、いっそう難しさも増す。でも、私は男性であるというアイデンティティの元で人生を築き上げてきた。いかに手術を重ねようとも、いかに多くのドレスを着ようとも、人の中には私のことを男性以外の存在としては見ようとしない人がいるだろうと思った。それゆえ、結果的には、私は先延ばしし続けてきたのだった。
とても恐れていたとも言える。恐れる理由も十分にあった。友人たちを失いたくなかった。妻を失いたくなかった。それに、今までと違うふうに扱われたくなかったのも確かだ。だけど、まさに、その通りのことが起きている。今までの人生から漂流し外れつつあるのを感じている。以前の人生からの距離がゆっくりと広がっているのを認識できる。これまでの人生が一気に崩壊するまで、あと、いったいどのくらい持ち堪えることができるだろうと思うことが多い。
それで、なぜ私はこれをしたのか? なぜ女性化する道を選んだのか? なぜ女性になりたいと思っているのか?
まあ、答えは簡単だ。他に選択肢がなかったから。事実上、選択肢がなかったと言える。どんな形であれ幸福を求めるとしたら、自分自身に正直にならなければならない。自分がなるべき人間にならなければならない。だから、そう、私は後悔していない。1秒たりとも後悔したことがない。このような姿になることが正直な自分でなかったら、もっと他の夢であったならと思うことはある。人に理解してもらえたらと思うこともある。でも、それが手持ちの札にないのなら、こうする他に方法はない。
そんなわけで私は女性化した。そして、もし、やり直しの機会が与えられたとしても、私は何度でも同じ決断をするだろうと思う。