
68_Mother's Day 「母の日」
手を離れたバッグが、音を立てて床に落ち、中身がタイルの床に散らばった。私は、母の姿を見ながら、口をあんぐり開けたまま。言葉が喉に詰まって出てこない。声が出ない。何も考えられない。それに、私の目の前にいる人のことを信じられないでいた。
「多分、ちょっと説明っぽいことをしなくちゃいけないわよね」と、浴室の真ん中に立つ母が言った。母の好きなローブがいつものフックに掛かっているけど、手にしようとはしなかった。むしろ、意図的に堂々と裸で立っている感じだった。彼女の脚の間にある、本当ならあるはずのないモノについて、何か言いなさいよと挑みかかっているようにすら見えた。
「あ、あたし……何が何だか分からないわ」 ようやく言葉を出せた。
「そうよね。分からないと思う。あなたが悪いわけじゃないのよ。ママはずっとずっと前にあなたに話しておくべきだったの」
ようやく、ありがたいことに、母は手を伸ばしてローブを掴んでくれた。それを肩にはおり、前を閉じた。「ちょっと長い話になるけど、いい?」
「え、いいわよ」 とあたしはつぶやいた。
母はあたしの横を通り過ぎ、廊下へ出て、リビングへと進み、そこのソファに腰を降ろした。あたしは頭の中が麻痺したまま、母の後についてリビングへ入った。目にしたモノの意味を理解しようとしながら。理解できなかったけれど。
あたしが腰を降ろすと、母は話し始めた。「始まりは、あなたが生まれた時だと思う。私は……」
「あなたは、本当にあたしのお母さんなの?」 母の話しを途中で遮り、あたしは叫んだ。
「どういうこと? もちろん、私はあなたの母親よ」
「あたしを育てたという意味じゃなくて。そうじゃなくて、あたしはあなたのDNAを持っているのかという意味で。あたしのことを9ヶ月間、お腹の中に入れていたかという意味で。あなたがあたしを出産したのかという意味で。それを教えて」
「テレサ、複雑なのよ」と母は眉のあたりを曇らせた。「私は一度も……どう説明してよいか分からない。鏡の前で何千回も練習してきたことなのに。どう言うか知っていたはずなのに。なのに、今は、どう言ってもふさわしくないようにしか思えない」 そう言って、母は両手で顔を覆った。「ああ、どうしてもっと早くあなたに言わなかったんだろう。そうしてたら、ずっと簡単だったのに」
「お願い、話して」とあたしはなだめるような声で言った。
母は溜息をつき、体を起こした。目に涙を浮かべていたし、両頬が濡れているのが見えた。「私はあなたの父親なの。生物的な意味で言って」
「でも、お母さんは父は死んだって言ってたんじゃ……」
「ウソだったの。というか半分ウソだったかも、分からないけど。あなたの本当のお母さんが家を出た時……それは私のせいだったんだけど……その時、あなたのお母さんはあなたを私のところに置いて出て行ったの。私は彼女を探したわ。でも見つけられなかった。まだ彼女が生きてるかすら分からない」
そう言って母は再び溜息をついた。考えをまとめている様子だった。あたしは何か言いたかったけれど、何を言ってよいか分からなかった。だから、母が泣いている間、あたしはじっと黙っていた。
ようやく母は顔を上げ、啜り上げながら言った。「私はトランスジェンダーだったけど、あなたのお母さんはそれに対処することができなかったの。当時は、社会は今ほど許容的じゃなかったから。私はバレることがとても怖くて、こっそり女装して、隠し続けた。でも、あなたのお母さんに見つかったの。そして彼女は家を出た。私にひどいことを……いろんなことを言われた。私の友だちみんなにも全部バラした。私の親にも兄弟にも。私は故郷を離れる他に道はなかったわ。ああいうことが周囲に渦巻いている環境であなたを育てるのはイヤだったから」
母は立ち上がり、壁に顔を向けて立った。「でもね、それは、次の段階に進むために必要なことだったの。だから、悪いことばっかりだったとは思わないわ。それに、あなたには母親が必要だった。女の子は誰でもそう。母親が必要なの。だから私は変身した。女性化が完了したころまでには、私たちは新しい町に住んで、新しい生活を始めていた。そして、私は、あなたに幻想を崩さないでいて欲しくて、本当のことを話さなかった。あなたから母親を奪いたくなかったの」
母はあたしの方に向き直った。「私を許してくれる? あなたをずっとだまし続けてきたから、あたしを恨んで当然だと思う。でも、すべてあなたのためを思ってのことだったのよ。私は……私はあなたに、あなたの父親が……父親が変人だなんて思ってほしくなかったの」
あたし自身の頬も涙で濡れていた。母が歩んできた人生のことを思い、涙が止まらなかった。そして、ようやく、あたしは返事した。「あなたはあたしの父じゃない」
「何て……?」
「あなたはあたしのお母さん。ずっと前からそうだったし、それはどんなことがあっても変わらない。お母さんが以前どんな人だったかは関係ない。お母さんの脚の間に何があるかなんて、関係ない。あなたはいつもお母さんとしてあたしのそばにいてくれたし、これからもずっとそうしてくれるはず。ママ、ママのこと大好き。母の日、おめでとう」