Pride 「プライド」
あたしはプライド月間(
参考)に親近感を感じたことは一度もない。あたしには、あれはずっと前から無意味なエネルギーの無駄遣いとしか思えない。確かに、楽しいパレードがあると面白いと思う。それに、たった1ヶ月の間にせよ、大衆に受け入れられるのが嬉しいというのも理解できる。でも、あれはあたしのためになってるかというと、そういう気持ちにはなれない。
トランスジェンダーの女性として、そういう感覚は珍しいわけではないと思う。たいていの人は理解していないけど、LGBTQ(
参考)のコミュニティにおいても、いまだにかなり性差別的なことがあるのだ。特に、トランスジェンダーのレズビアンとなると、それが顕著に表れる。
単なる通りすがりの人と呼ばれたことがあった。イカサマ師と呼ばれたこともあった。これは、女性を男性のために利用できるよう女性性を破壊する、男尊女卑主義者がよく使う策略だ。日常生活で会う人たちから憎悪の言葉を浴びせかけられてきたけど、それと同じくらい、自分の仲間たちからも憎悪の言葉を浴びせかけられてきた。多分、仲間たちからの方が多いと思う。
最近まで、あたしは、自分が自分自身でいて安心できるはずの場所なのに、そこでは自分が部外者になってると感じていた。それ自体、悲しいことだけど、それは、まともな情報を与えられていない保守主義者たちからの日常的な差別的罵倒よりも悲しいことだった。なぜなら、この人たちの方こそ、ちゃんと知識を備えているはずだったから。あたしのような存在を受け入れることができる人たちと思われていた人たちだったから。ヘイトの言葉が、どれだけ強い力をひとに与えるか、知っているはずと思われていた人たちだったから。でも、その時、あたしは真実を悟ったのだった。
あの人たちは、怯えていただけなのだと。もちろん、あたしに怯えていたわけじゃない。あたしが表すことに怯えていたのだ。あの人たちは、特別と思われたがっていた。自分たちこそ特別だと、自分の立ち位置を求めていたのだと。そんな時、あの人たちはあたしを見た。自分たちの安全な場所に踏み込んできた人間だと認識したのだと思う。それが耐えがたかったのだろうと。それを知った後、あたしはあの人たちのことを気遣うのを止めた。
今、望むことは、いつの日か、あの人たちも、別に壮大な陰謀などないのだと理解することだけ。あたしは別に女性たちの経験をなぞることで女性たちを服従させようとしてるわけじゃない。あたしは単に自分の人生を女性たちのようにして、歩もうとしてるだけ。単に、幸せになりたいだけ。
それこそ、プライド・パレードの本来の意味だったはず。世の中が辛く当たろうとも、幸せになってる人たちがいると。あるいは、あたしがそういうのを見たいだけなのかもしれないけれど。