Too much to ask 「要求しすぎ」
ある人々にとっては、受容されることとは単なる概念にすぎない。そういう人たちは、自分たちが普通であるがゆえに、受容されることを当然のこととして一生を過ごしていく。そういう人々は、世の中でじろじろ見られることを気にする必要がない。自分がどういう人間であるかが理由となって、昇進をパスされてしまうことにならないかを気にする必要がない。将来ロマンティックな関係になる可能性がある人に、いつ、「びっくりさせる事実を明かす」のが適切だろうと思い悩む必要がない。そういう人たちは、政治家や宗教界の指導者や科学者が、まさに自分たちが存在することが合法的か否かを議論するのを耳にすることなど、ほとんど想像すらできないだろう。
これまで私は、数えきれないほど聞かされてきた。「あなたは自分自身になればいい」と。「それさえすれば、すべてがうまくいくから大丈夫」と何度も言われてきた。そうすれば、私の人生は意味のあるものに変わり、社会も突然、私のことを受容するようになる、と。耳には気持ちよい言葉。
時々、人々は本当に理解してるんだろうかと思うことがある。友人や家族の前に立ち、自分はみんなが思っているような人間ではないと言うのがどんなことか、本当にみんな理解しているのだろうか。本当の自分を世の中に明らかにするのが、どれだけ難しいことか、みんなは本当に分かっているのだろうか。ドレスを着たら、誰もが、ドレスを着た男性としか見ないのを知りつつ、カミングアウトをするという第1歩を踏み出すことが、どれだけ難しいことか、みんなは本当に分かっているのだろうか。もちろん、誰も分かっていない。なぜなら、あの人たちにとっては、そんなことは現実的なことではないから。そんなことは、単なる想像上の考えにすぎない。彼らは、共感はするかもしれないが、共感の範囲は、せいぜい、その程度までにしか及ばない。
答えが分かったらどんなに良いだろう。本当に、そう思う。でも、どれだけ私たち人類が進歩しようとも、私たちをありのままに見ようとしない人々がいる。自分たちが私たちはこうあるべきだと思っている姿で私たちを見る人々。多分、その人々は口に出して何かを言うことはないだろう。でも、その人たちは、心の中ではそう思っている。彼らの仲間内だけで、そのことを話し合う。仲間内で、私たちを罵倒しあい、私たちが抱えている問題をあざ笑う。彼らは、私たちを非人間化し、モノ化する。それは人間のサガだから仕方ないと弁解する。私たちは自分たちとは違う存在である。だからこそ、彼らはそれが気に食わないのだ。
また別の人々は、非常に熱心に私たちを受容することを望み、その結果、彼らの反応をあまりにひどく歪めてしまい、その結果として、私たちをヒーローとして祭り上げてしまうほどになってしまう。だが、これは、私たちを罵倒する人々と、ほとんど変わりがない。この手の人々にとっては、私たちは人間ではないのだ。私たちは口実なのである。背広の襟に着ける「進歩的」を表すピンにすぎない。彼らは、自分たちがどれだけ私たちに寛大かを人々に見せたがっている。いや、見せる必要を感じているのだ。なんだかんだ言っても、彼らは私たちのラベルにひれ伏してるのだよね? この人たちにはトランスジェンダーの友人たちがいる、だから、彼らは進歩的に違いない、としたいのだろう。これは、怒るまでもないことだとしたら、それは悲しいことじゃないのかと思う。
結局のところ、私は、ただ、他の人と同じように扱ってほしいだけなのだ。それは本当に要求しすぎのとこなのだろうか?