スティーブは、固いベンチシートの上、背中を背もたれに預けながら、注意深く妻の顔を観察した。彼女の目に、嘘を言っているような表情はない・・・だが、これまでも騙されてきたのは事実だ。スティーブは話しを始めようとして、一旦、やめた。一度、小さく咳払いをした。それからようやく話し始めた。
「いや、分からない。どんなことについても、もはや、あまりはっきり分からなくなっているんだ。ただ、確かなのは、僕は、君が他の男と一緒にいるの想像するのは、もう耐えられないということだけだ。セックスだけについて言ってるわけではないよ、バーバラ。セックスは、僕にとっては、かなり・・・よそ事というか・・・何と言うか、興味がないこと、と言うのが一番適切な言葉だと思う・・・」
「セックスのことだけじゃなくて、毎晩、君がうわの空でソファの向こう端に座っていた時のことを話しているんだよ。毎晩、君は、ラファエルだか誰だか知らないが、他の男のことを考えながら、上の空で、あてのない方をぼんやりと見ていたね。それに、僕は、僕にはしてもらえなかったキスのことや、小さな微笑や、触れ合いのことを話しているんだよ・・・僕に対してできたはずなのに、他の男に対してしていた、あらゆる小さなことごとのこと。それについて話しているんだよ」
バーバラの眼に涙が溢れ、輝いた。前屈みになって、床に置いたハンドバッグを取り上げ、あらゆる女性がバッグの中に持っていると思われるもの、つまりティッシュを取り出して、目の隅に当てた。
「分かってるわ・・・」 彼女はかすれ声だった。「私はバカだったわ。そういうことをあなたと一緒にするのが好きだったのに。心から、そういうふうにしたいと思っているの。でも、この何ヶ月か、あなたは私から離れてしまっていた。だから、今は、そういう他愛ないキスとか、微笑とか触れ合いとか・・・それを不可能にしているのは、あなたの方なのよ。でも、スティーブ? 今は、私たちが平等な関係になっているかどうかには、私は興味がないの。ただ、そういう時代に戻りたいということだけ。私にチャンスをくれるだけで良いのよ」
スティーブはバーバラがティッシュをしまうのを見ていた。彼女は、今度はバッグを横の椅子の上に置いた。
「ああ・・・でも、バーバラ、どうかなあ・・・僕は・・・」
「あなたには、これから何か失うものがあるの?」 バーバラは、スティーブの言葉を遮った。落ち着いた声だった。
スティーブは、怪訝そうな顔でバーバラを見た。今夜、困惑させられ、バランスを崩されるは、これで何度目なのだろう。
彼はコーヒーを啜った。だが、コーヒーはまだ熱すぎで、彼は舌をやけどしてしまった。カップを慌てて元に戻したが、そのためにテーブルに少しこぼしてしまった。彼はナプキンを取り、こぼれたコーヒーを拭った。
「どうなの?」
バーバラは、スティーブが動作を終えるのを待って、もう一度、問いかけた。スティーブがコーヒーを飲んだり、こぼしたりしてる間、彼女は筋肉一つ動かさず、彼を見つめていた。
スティーブは静かに溜息をついた。一体、男はこういう状況で何をすべきなのだ? 物事が、あまりにも急速に進行している。頭がくらくらする思いだった。今日は、最終的に妻との離婚が決まると期待して来たのだ。あのことで、彼女は、今は、自分のことを嫌悪しているはずだと確信していたし、それが決定的な要因となって、自分を解放してくれるはずだと思っていたのだ。だが、その1時間後、バーバラは、彼がこの数日行ってきたことをすべて脇に置くから、彼女が行ったことを脇に置いてくれ、少なくとも、家に戻ることを許せと言ってきている。
彼の理性では、バーバラは正しいことを言っていると分かっていた。だが、彼の本能では、妻は自分をからかっているような気がしていた。スティーブは混乱していた。こんなふうになるはずじゃなかったのだ。バーバラが、戻りたいなど、言うはずがなかったのだ・・・
スティーブは、認めた。確かにバーバラは正しい。すべてを考慮しても、彼は、いまさら失うものは何もない。バーバラが帰るのを許したからといって、何も変わらないじゃないか。それに、自分はすでに一度バーバラを追い出しいている。その気になれば、もう一度、追い出すこともできるだろう。実質的には、何も変わらないだろう。
「分かったよ」 スティーブは注意深く返答した。
バーバラは、長い間、じっとしたままでいた。それから、あまりにも長い間、止め続けていた息を吐き出した。そして、ぎこちない笑みを見せた。スティーブが提案を受け入れてくれたことに、鎧が脱げた思いがしたのだろうか、ちょっとレストランの店内を見回した。
「お腹がすいたわ」
スティーブは目をぱちくりさせた。彼は、今夜、起きた忌々しいことを想定することができなかった。その一方で・・・
「ああ、僕も食べても構わないよ」と彼はバーバラに同意した。
********
遅くなってからの軽い夕食を食べ終えたあと、二人はしばらくおしゃべりをした。二人とも、話題が中立的なものであり続けるよう、注意を払った。今の二人の状況、先週に起きた出来事、そして今夜の出来事があったにもかかわらず、二人とも、自分たちが、どこか、このおしゃべりを楽しんでいるところがあることに気づいていた。でも、かなり夜も遅くなっている。二人とも、翌日、仕事に行かなければならなかった。
レストランの外に出ながら、スティーブは、「タクシーを呼んでやろうか?」 と言った。夜の空気は、寒すぎるでもなく、むしろ爽やかな冷たさがあった。
バーバラはスティーブの方を振り返った。「私は、家に帰りたいといったはずよ。そして、あなたも、それでいいと言ったはず」
「ということは・・・」
スティーブは反論しようとしかかったが、声に出す前に諦めた。今夜は、裏をかかれっぱなしに思えた。今、反論したからといって、何も変わりはしないだろう。夕方の時は、あんなに希望に溢れた気持ちだったのに。
ピックアップ・トラックに近づきながらスティーブは訊いた。「服はどうするんだ?・・・着替えないわけには?・・・」
バーバラは助手席の中を指差していた。スティーブは中を覗きこんだ。幅広のシートの上に、大きなスーツケースが2つ鎮座していた。彼は、溜息をつき、ドアのロックを解除した。
「ずいぶん自信があったんだな?」
スティーブはそう唸り、荷物を取り上げた。車高の高いピックアップから大きなスーツケースを持ち上げ、後ろのトランクへ置き換えるのは、簡単なことではなかった。忌々しいほど、重い。
「いえ、違うわ」 バーバラは可愛らしい声で答えた。「だけど、おばあちゃんのノニーは、あなたのことに自信があるみたいよ」
スティーブは驚いた顔で彼女に顔を向けた。2つ目のカバンをあやうく落としそうになりそうだった。何とか、そのスーツケースを持ち上げ、後部座席の方へ回し、最初のカバンの隣に置いた。それから、何も言わぬまま、前向きに戻りかけた。だが、向き直る途中、助手席の方を向いたところで、動きを止めた。
「あっ、おい!・・・ああぁ!」 スティーブは、自分で声に出す前に、自分の抱いた疑問に答えを出していた。
「あなた、私の持ってたキーは取り上げなかったでしょ?」 バーバラは、答えるまでもないといった風情で説明した。そして、慎重な面持ちで付け加えた。「でも、家の新しい鍵はちょうだいね」
「なるほどね」
スティーブは肩をすくめた。確かに、何ヶ月か前、ピックアップのキーを交換することを考えたことはあったが、その時は重要なことには思えなかったのだ。だが、バーバラが戻ってくるのを許した以上、新しい家の鍵は渡さなければならないことになったのは事実だ。
「リディアは、君が僕を操縦できると自信があったわけだね?」
スティーブは、半ば憤然としながら訊き、助手席のドアを開け、高い座席にバーバラが上がるのに手を貸してあげた。
スティーブが運転席に乗り込み、ドアを閉めるのを待って、バーバラは答えた。「いいえ、違うわ。でも、ノニーは、あなたが不合理な態度をするのも、ある一定のところまでで、それを超えてしまうことは自分自身が許さないと、そういう人だと言ったわ。自分が翼を広げて飛べるところまでは許容するけど、それ以上は度を越えることはできない人だと。ノニーは、あなたにとても信頼を置いているの。それは知っているはずよ。ノニーは、あなたが素晴らしい人(
参考)だと、とても確信しているんだから」
スティーブは運転席の窓を開け、冷たい夜の外気を入れた。
「ノニーは、またも、神様の役を演じるわけか」
彼は、そう呟いて、エンジンをかけた。
********