マリイはすねて目を伏せ、窓辺へ駆け寄った。
「なら、あなたは、どこぞの修道院出の淫乱娘が、私に望まぬことをされたと泣きついたという理由だけで、私を追い出そうとしているのね」
レオンは、マリイは振り返り、レオンを真正面から見据えた。レオンは平然とした表情を保ちつつ、動かずにいた。
「あの嘘つき娘! 最初から喜んでいたくせに、何も知らないウブな女の振りをして! あの娘の言うことなど、真に受けちゃいけないのよ!」
「マリイ、わしは、ここから出て行って欲しいと言っているのだ。お前が、イサベラにこれ以上、穢れを注ぎ込まぬうちに」 レオンは、かろうじて、マリイに対する嫌悪感が声に現れないようにすることができた。そうすることは、彼自身のためでもあった。
「まるで、あの淫売を愛しているような口ぶりね!」 マリイは声を荒げた。レオンは、そんなマリイを見つめるだけだった。
「ふん、本気とは思えないわ・・・」
レオンはマリイに何の反応も示さなかった。その間、部屋を沈黙が支配した。マリイの瞳には焦燥の色が浮かんでいた。
「私を一文無しの未亡人のまま追い出すなんて、できっこないはず。世間がどう思うかしら?」
「パリにたった2日で行ける場所にある邸宅に住み、自由に使える召使どもと月々の手当てを得ている。そんな状態は一文無しなどとは呼べないだろう。それでも、非情だというなら、いつでも、再婚できるのだよ、マリイ」
レオンは、ずきずき痛む頭を気遣いながら、ゆっくりと立ち上がった。扉へと歩み、勢いよく開け、手を振ってマリイに出るよう促した。
「でも、あなたじゃなきゃだめなの!」 マリイは悲痛な叫びをあげた。
「わしがお前への手当てを減らすことを考えだす前に、出て行くことだ」
レオンは平然と言い放った。彼の頭はイサベラのことでいっぱいだった。今や、マリイがいたずらに彼の心を操作しようとしたのだと知ったが、そんなことではほとんど変わらなかった。昨夜、マグカップで5杯目のエールを飲んだ後のいつか、レオンは自分の行為、自分がしてしまったことの重大さに気がついたのだった。その時まで彼はそれを考えもしていなかったことだった。
マリイは最後の手段とばかり、レオンにすがりつき、奸智にたけた指使いで彼の股間をまさぐりながらキスしようとした。だが、レオンはそれを払いのけ、弱々しく泣き出すマリイを後に、部屋から出、音を立てて扉を閉じたのだった。
戸外の冷たい空気に当たり、陽を浴びながら、レオンは後悔の念に囚われていた。残忍な行為をしてしまった。イサベラの愛らしいほどに敏感な身体を、怒りと嫉妬の感情をぶちまける器として使ってしまった。強姦したに等しい。
突然、レオンは前のめりになり、苦く酸味を帯びたものを吐き出した。嘔吐を繰り返しながら、後悔と自己嫌悪が波となって彼を襲った。胃に吐き出すものがなくなった後も、何度もこみ上げ続けた。レオンには、それが自分の悪行の具体化したもののように思われた。
苦しみに目を潤ませながら、レオンはようやく歴然とした真実を認めたのだった。つまり、イサベラは、あの日、書斎で初めて見たときに感じた印象通りに、可憐で、同時に従順な存在であるということを。自分だけが盲目で、彼女のその姿を見抜けず、憎むべきイサベラの父親と同じ鋳型に嵌めて彼女を見ていたということを。
「くそっ、俺は何てことをしてしまったんだ」
* * *
彼女は、背中に鋭い視線を感じ、瞬間的に、レオンが小部屋の入り口に現れたのを知った。彼女は、暖炉の前、床に脚をくずして座っていた。暖炉の火に肌を温められつつも、恐怖に身体を震わせた。左右の太ももの上に両手を揃えていたが、その両手はひとりでにこぶしを作っていた。着衣を許されず、露わになったままの乳房を覆いたいという本能と戦っているのだった。
「身体は大丈夫か?」
思いがけず優しく問いかけられ、イサベラは、緑色の瞳を大きく広げて振り向き、レオンの金色の瞳の視線を捕らえた。
レオンは静かに彼女の前に移動した。目には後悔の表情を湛えていた。
イサベラは小さく頭を左右に振った。怒るべきなのか、悲しむべきなのか分からなかった。長い間、沈黙が続いた。
ようやくイサベラが口を開いた。
「あの人は、あなたの奥様なの?」 彼女は自分の声が震えていないのをありがたく感じた。
「いや、あの女は俺の父の妻だった女だ。俺にとってはトゲのようなもの。だが、今は取り除いた」
「取り除いた?」 イサベラはためらいがちに聞き返した。レオンの言った言葉に胸が高鳴ってしまうのを感じ、とたんに心はそれを認めまいと動き始める。
「あの女は、俺が持つ別の土地へ移り住み、再婚するまで、そこに留まるはずだ」
「まあ・・・」 と言いかけてイサベラは下唇を噛んだ。「あなたとあの人は・・・」 レオンの返事が怖く、その先を言うことができなかった。
レオンはかなり長い間、沈黙を続けた。あたかも心の中でどう返事をすべきか話し合いを続けているようだった。
「・・・ああ。確かに、一度・・・俺がまだ若く、経験も少なかった頃・・・男と女の間のやり取りに不慣れだった頃だ・・・以来、ずっと心の底から恥に思っている過ちだ。父も察していたと思うが、一度も俺には話さなかった」
イサベラは、あの女性とレオンがそのような仲になっているのを想像し、心の中がざわめいた。
「レオン」
「イサベラ・・・」
「いや、お前から先に」
「私、てっきりあなたが・・・」 イサベラはそう言いかけて、考え直し、また改めて言い直した。「あの人がしたこと、私は、あなたが望んだことだとばかり思っていたわ」
「よいか。お前を誰かと共有することなど、俺は決して望まない」
レオンは手を伸ばし、指先で彼女に触れようとしたが、イサベラは、かすかに逃れる動きを示した。彼女は、レオンの瞳に一瞬、悲しみの表情が浮かぶのを見た。その表情は、すぐに隠れてしまった。多分、レオンはその感情をとっさに隠したのだろう。
レオンは、いったんは差し出した手を、また、元の体の横の位置へと降ろした。
「あの女は、この10年間、ずっと、かつて俺が示したわずかばかりの情を再燃させようと試み続けてきた。無駄な試みであるにもかかわらず・・・俺の思慮が浅かったばかりに、お前に苦痛を与えてしまった。あの女がお前を利用して俺に近づこうとするのを、予測すべきだったのだ。しかも、俺は愚かさに加えて嫉妬心から、いっそう、お前に苦痛を与えてしまった。そのことを心から後悔している。お前の優しさと寛大さで、俺を許してくれるとありがたい。このような不安はたまらない。お前にそういう気持ちを持たせるような真似は、決して行わないと約束する」
イサベラは、レオンの後悔と心痛を感じ取り、それを和らげることができるのは自分だけだと知った。だが、彼女は黙り続けた。膝の上、固く握った両手のこぶしを虚ろに見つめたままだった。
「俺を許してくれるか?」
部屋のなか、沈黙が続いた。
ようやく顔を上げたイサベラの瞳には、何かを心に決めたような色が浮かんでいた。
「私、ここに閉じ込められているのは、いや」
つづく