そのリップクリームはサクランボの香りがするものだった。アンジーは僕の唇にそれを塗り終えると、僕の手を取って、階下のキッチンに連れて行った。
キッチンテーブルの上にはステンレスのサーモス(
参考)が二つ置いてあった。後で分かったことだが、その中には熱いコーヒーが入っていた。それに、テーブルには黒い革手袋も二組おいてあったし、椅子の背もたれには、革製のジャケットが二着かけられていた。
アンジーは、そのジャケットの一方を僕に渡し、もう一方を自分で着始めた。ジャケットは特に男女の区別がないように見えたけど、ジッパーを閉めようとした時、位置がいつもと逆になっているのに気づいた。
ジャケットを着ると、今度は手袋を渡された。これは間違いなく女物だった。指のところが長く、細い。でも嵌めてみると、予想に反して僕にぴったりだった。もっと言うと、これまで試してきた手袋の中で、指のところが大きすぎないと感じた手袋は、これが初めてだったと思う。
身支度ができると、アンジーはサーモスをひとつ僕に渡して、言った。
「出発の準備はいい?」
「いいと思うけど、ちょっと僕たち厚着しすぎじゃないかなあ。車のヒーターは壊れていないんでしょう?」
アンジーは笑いながらガレージへと歩き出した。
「もちろん、車のヒーターは壊れていないわよ。それに車で行くとしたら、確かに厚着しすぎだわね」
ガレージに入ったとたん、どうして、こんなに厚着したのか理解した。ガレージの真ん中に、僕には巨大と思えるオートバイがあったのだった。アンジーが言うには、これはハーレーのワイドグライド(
参考)で、3年前に買ったものらしい。
彼女はサドルの物入れにサーモスを入れ、エンジンの横についている小さなバルブを開けた。それから別のレバーを動かし、その後スタート・スイッチを押した。すぐにエンジンは唸り声をあげ、眠りから覚めた。
エンジンのアイドリングをしている間、アンジーは僕にフルフェースの黒いヘルメットを渡した。それを被ろうとしたら、彼女はちょっと僕をとめて、情熱的なディープキスをし、それから言った。
「オーケー、ビッチ(
参考)、バイクに乗りな!」
僕がびっくりした顔をしてるのを見て、アンジーは笑いだした。
「別に悪気はないわ。ただ、バイク乗りたちは、後ろに乗る人をビッチって呼ぶでしょう? だから、今日はあなたは私のビッチになるのよ」
そう言って僕にもう一度キスをした。僕はバイクにまたがり、彼女の後ろに座った。そして、アンジーと一緒にヘルメットを被った。アンジーはバイクのハンドルに装着しておいた自動ガレージ開閉のボタンを押し、扉を開けた。そして、僕たちは道路に出たのだった。
僕は途中でどこかに立ち寄ったりしなければいいなと思っていたが、アンジーは、一度ガソリンスタンドに寄り、ガソリンを補給した。幸い、アンジーはクレジットカードで支払いをしたので、僕はバイクに乗ったままでいられた。5分ほどで給油は終わり、また道路に出て、町の中から郊外へと走った。
ほぼ一時間ごとに僕たちはバイクから降りて休憩をとった。乗りっぱなしだと背中が苦しくなるからである。止まる場所は、見晴らしが良い場所か、休憩場所だった。一緒に手を握ってベンチに座り、休むのが普通だった。
昼食時となり、僕たちはハンバーガーショップに止まった。屋外にテーブルが出してある店だった。多少、肌寒い日だったので、外のテーブルを使っている客はいなかった。アンジーはバイクを放置しておくのは好まず、いつも見張っていられるようにしたかったので、僕がバイクのそばにいて、その間に彼女は店内に行き、食べ物を買った。そして僕たちは、バイクの隣、屋外のテーブルでランチを食べた。
アンジーは、機会をとらえては、僕のことを「私のビッチ」と呼び続けた。バイクに乗る時も、「ビッチ席にお尻を乗せな」と言った。お昼過ぎには、僕もビッチと呼ばれるのが気にならなくなっていた。もちろん、彼女は、ちょっとふざけ気味に言ったり、セクシーに囁いたりする形でしか、僕のことをビッチと呼ばなかった。
バイク乗りが終わり、再びアンジーの家に戻ったときには、もう日が暮れていた。