地獄の第5段階は、来る日も来る日も、この先ずっと、この分裂した自我と直面して生きていかなければいけないと認識すること。「ランス」として玄関を出ても、ありとあらゆる局面で、前夜の「リサ」の記憶が忍び寄ってくるのだから。
ダイアナと愛し合っているとき、ダイアナは、よく、爪で私の乳首を掻いて愛撫してくれる。これがとても気持ちいい! それをするとき彼女は私の背中に胸を押し付けてくる。そんな時、快感の嵐に揉まれた私の心は、ちょっと変な幻覚を思い浮かべてしまうのだ。その幻覚では、彼女のあの美しい乳房が背中から私の身体に入り、そこを通り過ぎ、私自身の乳房になり変わっているのである。
思い出すのは、前にした話しあい。Tガールたちが目的を達成するために使う、手術とか、ホルモンとか、その他の身体改造について話し合ったこと。現実的に考えて、豊胸手術やその他の後戻りできない大きな身体改造を受けるなんて私には考えられないことだ。少なくとも、ファッションショーのためにもっと女性的に見えるためといった理由からでは、それはあり得ない。メモリアル・デーの週末までは、たった14週しかないのである。その期間的条件を考えたら、問診とか、手術前のテストとか、手術自体、そして、その後の術後の長い回復期間といった長期にわたる厄介なプロセスを受けることなど、真っ先に排除されることである。
だけど、なぜか、それをしたらどうなるだろうと考えてしまうのだ。2週間ほど前なら、私は、そんな思いをにべもなく「馬鹿げてる」と言っただろう。そもそも、私が突然Dカップ、あるいはそれ以上の胸で職場に現れたとして、同僚たちにどう説明すべきかという問題もあるし、計画中のもう一つの仕事についても問題を起こすのは言うまでもない。それでも、どういうわけか、その可能性には興味をそそられてしまう…
地獄の第6段階はというと、職場に行くたび、オフィスビルの外で私を待ち構えている存在だ。スーザンである。彼女は、このところ。ずっとそうやって私を待ち構えているのだ。彼女はすでに、言い訳と言ったり、拒絶したり、しつこくせがんだり、脅迫したり、侮辱したりする作戦は試みてきていて、いずれも失敗に終わっている。現在は、最大限の魅力をふりまく作戦に出てきている。
トレンチコートの前を開けたままにして、その中には丈の短い、タイトなスーツを着ている。ビジネス服にしては、ほんのちょっとだけ派手な感じの服装だが、ストッキングとヒール高12センチのスティレットが動かぬ証拠だ。大芝居をしてもらえる人間はジェフ・スペンサーだけではなかったという話しだ。私のこの元妻がにっこり微笑めば、ラサール通り(
参考)の水銀灯の街灯は不要になるだろう。
「あなた?」 と猫なで声で声をかけてくる。「どうしてた? こんな形で待ち伏せして、ごめんなさい。でも、他に方法がなかったから。ねえ、話しを聞いて。今度のこと、本当に申し訳ないと思っているのよ。私がちょっと……ちょっと脇道にそれてしまったことについて、全然、あなたに話さなかった。だって、あなたがどれだけ傷つくか分かっていたから、言えなかったの。あなたを傷つけたくなかったの…」
笑えるな。スーザンは、そもそも自分が浮気したのが悪かったとは言っていない。それに、ジェフ・スペンサーと会うのをやめるとも言っていない。
「あなたの言うとおりね。あなたは、今も、私が初めて会った日と同じく女性には魅力的だわ。あなたが魅力をふりまいたら、拒みきれる女っているのかしら? 特に、あなたが私にしてくれたように、あなたが本気で女に甘えさせて、わがままを通させ始めたら、どんな女もイチコロだと思うの。ねえ、現実を直視しましょうよ。私たちは二人とも美しい存在なの。私たち、これまでもずっとそうだったように、一緒の世界に属しているのよ。だから、こんなバカげたケンカはやめにして。お願い。私と一緒に家に帰って。あなたがいなくて寂しいの」
話しだけ聞いてると、実にもっともらしく聞こえる。だが、事実は半分で、残りの半分は嘘であることや、故意に誘導していることを無視すればの話しだ。
こういったシナリオもあり得ると、私の弁護士が忠告してくれていた。小難しい法律用語を言い変えて咀嚼すれば、結局、こういうことになる。つまり、事実を知りつつ、この時点でスーザンを家に連れ帰ったなら、その行為は、法廷の目には、彼女の不貞を暗黙のうちに認めたことと解釈されるということだ。そうなったら、離婚のための確固とした根拠は一瞬のうちに霧散してしまい、結果として、私には、引き続き離婚訴訟を続けることで彼女に経済的にレイプされ続けるか、あるいは、和解したあげく寝取られ夫になるかのどちらかの認めがたい選択肢しか残らないことになるのだ。
「僕も君がいなくて寂しいよ」
これは嘘ではない。大半が幸福に包まれていた8年間を忘れ去るのは簡単ではない。それでも、彼女が一方的に行った言語道断と言える裏切りを受け入れるつもりはない。たとえ、彼女にどんな理由があったとしても。それに、未来のことは分からないにせよ、私は独りきりの未来になるとも、正直、思っていなかった。
「二日ほど、真剣に考えてみるよ。その後で、どうするか伝えることにする。約束だ」 とそう言って、話しを打ち切った。
スーザンは私の腕をぎゅっと握り、頬に軽くキスをした。彼女が私に抱きつこうとしなかったのは幸いだった。厚いコートを着ていても、抱きつかれたりしたら、問題となることを彼女が「発見して」しまうことになっただろうから。
「でも、私たちの本物の情報の方はどうなの? そっちは本当に安全?」とディ・ディが訊いた。
「アハハ。さらに超がつく天才でも現れない限り、僕たちの情報に近づくことはできないだろう。そもそも、肝心のデータベースはサーバーに置いていないんだ。もっと言えば、コンピュータ室の中にも置いていない。連中は、ここに侵入してきて、僕たちのハードウェアを全部押収するかもしれない。けど、そうしても僕たちのデータベースは得られないわけだ。ウチには世界で一番賢いプログラマーたちがいて、セキュリティ担当になっているんだ。セキュリティは決着した仕事と思っている」
「でも、そもそも、あなたはどうしてこういうことが分かったの?」
「覚えているかな? あの時、僕はモリスにいくつか質問しただろ? 僕は娘たちに、その時のモリスの心の中での返答に耳を傾けるように指示しておいたんだ。あいつは何も隠せなかったよ。できるわけがない。エマには、必要なら、ちょっと懲らしめて情報を惹き出しても良いと知らせておいた。エマはあいつの脳をちょっといじって、懲らしめた。数分もしないうちに、あいつは落ちたよ。全部、白状した」
今度はドニーが訊いた。「そう…。でも、政府はあの男を解放するんじゃない? 私たちの子を誘拐しようとした後でも、釈放されて、自由に歩き回るようになるんじゃ?」
「いや、そうはならないと思う。僕たちは、ここバロック郡でいちばん政治献金をしている者たちと言えるんだよ。僕たちは、郡警察の長を選出する時に援助をした。市長の選出でも援助をした。判事の選出でも援助をしたし、郡行政委員の選出でも援助をした。そろそろ、見返りを要求しても良い時期だ」
ディ・ディはいぶかしげな顔をした。「どうしてあなたはあんなにお金を出すんだろうって、ずっと前から不思議に思っていたわ。あなたは政治家を嫌っていたじゃない?」
「いや、地方政治家は良い仕事をしているんだよ。僕が知る限り、地方行政体は、たいてい、地元の有権者のために一生懸命働いてくれている。ここの郡でも同じだ。地方の政治家たちは良い人だ。僕が軽蔑してるのは、国レベルの中央の政治家たち。どの政党に属しいようと、関係ない。中央政治家はほとんど全員、どうしようもない連中だ。だけど、僕は彼らを責めたりはしない。なんだかんだ言っても、この腐れ切った政治体制を作ったのは僕たちなんだから。彼らは与えられた手札でプレーしているだけ。だから連中を責めたりはしない。ただ、それでも軽蔑はしているけど」
ドニーが口を挟んだ。「ディ・ディ? あなた、またアンドリューを脇道に逸らせてしまったみたいよ。私たちは、あの男のことを話していたのよ。何て言ったっけ、あの男の名前? モリス?」
「このモリスという男は、わざわざ、家に押し入り、誘拐をしようとした。これは大変な重罪だ。僕たちは、あいつに、真相を話さなければ、かなり長期の刑期を課されることになるとしっかり認識させようと思う。そうさせるのは簡単だ。あいつが法廷に出てきた時、エマが一番いいけど、子供たちの誰かがあいつの近くにいるようにすれば、簡単だ。家の子供があいつに白状させる」
「それにしても、司法長官が私たちに何の用だったのかしら? 私たち、ぜんぜん波風を立てていないはずでしょう?」 とディ・ディが訊いた。
僕はうんと頷いた。「でも、僕たちにはすでに200名近くの子供がいて、その全員がテレパス能力を持っているんだ。そういった情報が権力の中枢に届かないといったことは、たぶんあり得ない。母親たちには全員、すべてのことを黙っているようにと言ってあるけど、90名の母親全員について、口を閉ざしているかをチェックするなんてできないから」
ドニーは納得しなかった。「アンドリュー? 罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい、という教えがあるわよ。あなたが話した女性には、私が知ってる女性がたくさんいるの。男女差別的なことを言うのはやめて、あなたが考えている一番新しい理論で話しを続けて」
「ああ、僕たちが連中のお尋ね者になっている理由は、2つあると思う。ひとつは、僕たちが宗教的権利を気にする人たちには、あまり人気がないだろうということ。僕は、新能力をもった子供たち全員の父となっていることもあるし、僕には妻が二人いることも大半が知っている。テレパシーをもった子供たちのことを別としても、一夫多妻を実行している僕に反感を持っていて、僕を憎悪を向ける対象リストの最上位に据えたいと思う極端な宗教信者は必ずいると思うんだ。そういう人の中には、今の行政府に圧力をかけるかもしれない。それに行政府の中には重要な地位についてる宗教狂はたくさんいるからね…」
「…もうひとつは、連中が娘たちを狙ってきたということ。それは連中が何か知っていることを意味している。娘たちのIQが高いからという、それだけの理由かもしれない。超天才の子供をさらって、どんなことができるかを調べたいと。あるいは、テレパシー能力がバレているのかもしれない。モリスは、娘を誘拐する理由については知らなかった。だから、この点については僕の推測でしかないのだけど」
「これから、どうする?」 とディ・ディが訊いた。
僕はにっこり微笑んだ。「子供のころ、リトルリーグのコーチがいつも言っていたよ。完璧な守りこそが最大の攻撃になるって。向こうには税務署もあれば、ナパーム弾もあるだろうけど、こっちにもエマがいる。そろそろ、エマを解き放ってもいい頃じゃないかと思ってるんだよ」
つづく