マラとデビッドはしばらく沈黙のまま座っていた。その後、いたたまれなくなったデビッドが口を開いた。
「服を着てもいいんだよ。分かってると思うが」
マラは肩をすくめた。「あたしはどっちでも構わないけど。でも、あなたが居心地悪いと感じるんだったら……」 と彼女はすぐに服を着た。
「それでと……この先、どんなことを予想すべきか?……」 とジョーンズは切り出した。
「あなたの人生も、世界に対する見方も変わること」 とマラは答えた。「変化は身体的なものだけではないわ。不思議だけど。すべてがすごく連動してるの」
「どういうこと?」
「そうねえ……。変化の前は、あたしは女が好きだった。完全に異性愛指向だった。なのに、変化するにつれて、男の方が魅力的に見えてくるのよ。そして女の方はと言うと……まあ、もう今はあんなふうには気持ちが揺れたりしないと言っておきましょうね。それから、あの感覚! そのベル博士が何かしたかどうか分からないけど、でも、アナルセックスが……。変化の前に感じたどんなことよりも、はるかにずっと気持ちいいのよ。この2年ほどで、快感はかなり収まってきてはいるわ。でも、それまでしばらくの間は、あたし、文字通りの淫乱、色情狂だったのよ。でも今は、男と一緒になるのが自然だと感じてる。たぶん、男に惹かれるという指向を与えて、その後、その指向をプラスに強化したという仕組みじゃないかと思ってるけど」
「このことについてずいぶん考えたようだね」 とジョーンズが言った。
「ええ。さっき言ったように、あたしが男だった時には、女が好きだったから。そして今は、そういう状態とは真逆になっている。そういうことについて考えるのも当然じゃない? そうでしょ? ま、たくさんいろんなことが変わると予想することね、ジョーンズ捜査官」
*
デビッドは納得していた。脅威は現実だった。車の中、座席に座りながら、彼はマラが言ったことを考えていた。理屈が通る。もし、ベル博士が人の指向を変えることができたら、そして、その指向を快感を使って強化したなら、身体の変化を、彼が対象とした者にとって、より受け入れやすいものにすることになるだろう。そうすることで、対象者は、よりコントロールしやすくなる。
デビッドは頭を後ろに倒し、深い溜息を吐いた。そして、差し迫る変化について考えた。自分もマラやレアに似た存在になっていくのだろうか? ふたりとも豊胸手術を受けていた。ということは、乳房ができることは、ベル博士の計画には含まれていないことになる。デビッドは助手席に置いた茶色のファイルを取って、開いた。中にはベル博士の文書が入っていた。彼はそれを読みなおし、自分がどういう姿になるか、どんな存在になるかを想像しようとした。
現時点では、世界中で、白人男性がまったく新しく、高音の声を発し始めているところだと分かる。その声は、そもそもの声質に応じて、声の高さだけが変わるはずだ。低音だった男性は、女性的なハスキーボイスの持ち主になる。自分の場合は、元々、高音の男性の声だった。今後、おそらく高音の女性の声になっていくのだろう。彼は再び溜息をつき、ファイルのページをめくった。
手がかりと言えるものが、もうひとつある。マイケル・アダムズだ。西海岸カリフォルニアに住む、元ビジネスマン。
ジョーンズはエージェンシーに電話を入れ、ニューヨークからロスへのフライトを予約させた。フライトは翌日だった。そこでジョーンズは空港のホテルにチェックインした。
翌朝、ジョーンズはシャワーから出て、タオルで身体を拭いた時、全身の体毛がなくなっていることに気がついた。顔に手をやり、肌がつるつるであることを知る。第二段階、完了か。彼はその情報を頭の片隅に追いやった。今は目の前の任務に集中しなければならない。
*
翌日の夜、デビッドはロスに着いた。飛行機の中で寝ようとしたが、寝付けなかった。彼は眠る代わりに、追ってる事件のことを考えた。時系列に沿って出来事を考える。
次第にはっきりしてきてることは、ジョージ・ヤングが、元イジメをしていた者に対する復讐のために当初の化合物を開発したということ。今は亡き若い科学者に多額の金が支払われた。それは、ベル博士がその化合物を購入したことを確証していると言える。だが、ベル博士は資金が乏しくなっていたのだろう。そこで、彼はジャマル・ピアスに仕事を持ちかけた。そしてジャマルはライバルだった男を女性化した。ジョーンズは、マラの女性化はふたつの目的を持っていたのではないかと睨んだ。化合物の実験と、資金獲得のふたつ。
だが、このマイケル・アダムズという男は予想がつかなかった。彼のどこを取ってもオマール・ベルとは結び付きそうに思えない。アダムズは黒人だが、戦闘的な差別反対主義者ではない。共和党の党員の登録さえしている。彼は2年ほど前、巧妙な投資を行い、かなりの利益をあげ、それ以後は、静かに生活を送っている。にもかかわらず、彼は、ベル博士の組織に6百万ドル以上の寄付をした(その組織の目的は、自閉症の治療の研究と考えられている)。
いや違う。マイケル・アダムズについて、どこか間違っているはずだ。
ロスに着いたのは夜だったので、ジョーンズは少し眠ることにし、ホテルにチェックインした。部屋に入り、ベッドに入るとすぐに、彼は眠りに落ちた。
翌朝、目が覚め、着替えを始めた。ジョーンズは鋭い感覚を持っている。すぐに、ズボンの腰回りが緩くなっていることと、歩くと裾が床を擦っていることに気がついた。時間がどんどん減ってきている。間もなく、変化が本格的にスタートするだろう。
*
ジョーンズは動揺していた。彼ほどの冷静沈着な精神の持ち主ですら、レアと言う名の元男性が言ったことの含意を飲み込むことに、困難さを感じた。レアは、どのように変わっていったかを実に詳細に説明してくれた。そして、その説明は、ベル博士が書いた手紙の内容とまったく同じだった。
ジョーンズは車の中、自分のおかれた状況について考えた。正直、これまで、このケースを追ってきたものの、若干つまらないと感じながら追ってきたと言えなくもない。もちろん、彼はプロであり、有能なのではあるが、気持ちが入っていたわけではなかった。あの博士の狂った主張には何の信憑性もないと思っており、単にほら話を吹いただけの犯人を追うだけの、面白みのない事件だと思っていたのである。だが、今、ジョーンズは分からなくなっていた。このようなことをジョージ・ヤングという人物にできたのだとすれば、これは不可能ではないということになる。さらに、ジョージとベル博士は接触を持ったのは明らかだ。
次の行動を考えていると、彼の電話が鳴った。
「もしもし?」 内心の懸念がばれぬように、彼は落ちついた声で電話に出た。
「君が送ってくれたあの写真、ジョージ・ヤングで、正しいんだな?」
電話の向こうの分析官が訊いた。デビッドはそうだと答えた。
「そうか。だったら、そいつを探すのは、もうやめてもいいな。彼の容姿にマッチする死体が、いま君がいる州からふたつほど離れた州で見つかっていたんだ。それも5年ほど前に」
「本当か?」
「今、歯の記録と照合するため、いわば死体を掘り起こしているところだ。だが、ほぼ確実だと思っている」
「分かった。ありがとう」とジョーンズは答えた。「これから……」 急に声がかすれた。ジョーンズは一度、咳払いをした。「これから……接触しよう」
ジョーンズは電話を切った。さっきまでのジョーンズが、ベル博士の計画が現実化しつつあるのかもしれないと思っていた、と言うなら、今のジョーンズは、ほぼ確信したと言ってよいだろう。たった今、声が変わったのだ。
ジョーンズは、とりわけ低音の声だったというわけではなく、時々、低音の女性の声に聞き間違えられることもあった。だが、いまは、まともな人間なら誰でも、彼の声を男性の声と聞き間違える人はいないだろう。試しに何度か声を出してみた。やはりダメだった。彼の声は、これまで耳にしてきたどんな女性の声と比べても、むしろ、それより甲高い声に聞こえた。これは驚きだった。
だが、たとえ、そのようなことがあっても、決して集中力を失わない。それがデビッド・ジョーンズの本性である。未解決と決定されるまで、彼は追跡を続けるだろう。依然として、辿っていける道は、まだ、ふたつみっつは残っている。ひょっとして、本当にひょっとしてだが、この件に関して、本格的に変化が始まる前に、自分が食い止めることができるかもしれない。
彼は車をスタートさせた。先の道のりは長く、残された時間は刻々と減っていく。
*
そのおおよそ2日後、ジョーンズは、とある豪邸の前に立っていた。
彼は、東海岸の海岸線に沿って北上し、昨日、ニューヨークに着いていたのだが、すぐに、目的としていたジャマル・ピアスと言う名の犯罪者が、2年ほど前に引っ越していたことを知ったのだった。ドラッグ王どもは、引退の計画もしっかり立てているものらしい。
だが、ピアス氏がニューヨーク郊外の土地に引っ越したことを探り当てるのに時間はかからなかった。彼は、自分の帝国を譲った部下から、いまだにちょろちょろと収入を得ているらしい。だが、あらゆる面からみて、彼がこの業界から実質的に手を引いているのは確かだった。
デビッドは玄関をノックした。その数秒後、小柄な黒人女性がドアを開けた。彼女の肌色は薄色であり、両親の片方が黒人で、もう片方が白人である様子だった。髪もストレートに伸びている。身長は160センチ程度。体重も55キロはないだろう。アートっぽい刺繍があるジーンズとピンク色のゆったりしたTシャツを着ていた。
「ああ」とジョーンズは偽のFBIバッジをチラリと見せた。「ジャマル・ピアスさんに会いに来たのですが、彼はここにいますか?」
彼女は、ジョーンズの声を聞いて、一瞬、彼の顔を二度見したが、何かを思い出したようで、気にしなくなった。
「ええ、どうぞ、入って。彼を連れてくるから」 と彼女はジョーンズを中に入れた。
彼女が二階に上がるのを見ながら、ジョーンズは豪華な装飾や家具がある居間でソファに座った。部屋を見回す。このジャマルと言う男はかなりの期間、カネを持っていたのは明らかだ。しかも、最近得たカネにもまったく執着していない様子だ(趣味が悪いかも。しかし、高価できらびやかなら、自分も欲しい)。いや、よく見ると、なかなかいい趣味をしているようだ。
2分もしないうちに、逞しい黒人男が階段を降りてきた。例の女性が、その後をついてくる。
「何か御用かな、捜査官?」 と男は低いバリトンの声で尋ねた。
「FBIのデビッド・ジョーンズ捜査官です」 とジョーンズは立ち上がり、ジャマルのところに近づいた。
ジャマルは手を差し出し、ジョーンズは彼と握手した。
「それで、どんなご用件で?」
「最初に、ふたつ三つ、除外したいことがあるだが…」
ジャマルは頷いた。
「私はあなたが誰であるかも、あなたがしてきたことの大半も知っている。だが、私はそれには興味がない。あなたは私の調査対象ではない。私がここに来たのは、オマール・ベル博士を見つけるためだ。過去、あなたがベル博士とビジネスをしたことは知っている。そのビジネスでのあなたの役割にも、私は興味がない。ただ、ベル博士を見つけたいだけだ」
「よかろう」 とジャマルは言った。「訊きたいことを言ってくれ。だが、俺はそいつがどこにいるかは知らんよ。もう何年も会っていない」
「どんなビジネスだったのかな? あなたが彼に多額の金を払ったのは知っている。それは何のためだったのか?」
ジャマルは女の方に顔を向け、言った。
「マラ、服を脱げ」
「いや、これは……」とジョーンズが言いかけた。
「いや、これがあんたの質問への答えなんだよ、ジョーンズ捜査官」
ジャマルがそう言う間にも、マラと言う名の女は、すぐに服を脱ぎ始めていた。ジョーンズは、居心地悪そうに、女が服を脱ぐのを見ていた。数秒後、女は素っ裸になっていた。そしてジョーンズは、女が実は女ではないことに気がついた。男なのか? あるいは、男のようなものなのか? 少なくともペニスはついている。だが、異常なほど小さく、5センチもないだろう。
「これが」 とジャマルはマラを指差した。「これが俺がカネを払って手に入れたモノだ」
「何を言ってるか理解できない。彼女は……」
「彼は、だ。マラは女じゃない。見ての通りな。はっきりさせよう。いや、マラに話させた方が、もっといいかな」
数秒後、マラは話し始めた。以前は強盗(他の犯罪者たちを襲って獲物をかすめ取るギャング)だったこと。そしてジャマルらに捕まったこと。(正確な時間はマラは分からなかったが)それから1年ほどかけて、身体が変化したこと。その後、2年近く、ジャマル一味への性奴隷として暮らしたこと。それらをマラは平然と語った。
「でも、その後、ジャマルはあたしをそこから解放してくれたの」 とマラは心から愛情を持っている様子で語った。「彼が引退して、あたしをここに呼んでくれたの」
マラの話しは、レアが語ったことと似ていた(少なくとも、身体の変化については)。ともかく、ここにいるドラッグ王は品行方正になった様子だ。
「で、ベル博士がどこにいるかは分からないと言ったね? 彼に接触する方法はないと言うことか?」 とジョーンズはジャマルに尋ねた。
「ああ。それに、あいつを見つけるのは大変だと思うぜ。ベルは、あのウイルスだか何だかを放出した後、どこかに身を隠したからな。変化はすでに始まっている」
それは質問してなかったが、ジョーンズは頷いた。
「他に何か情報は?」
「俺か? ないな。だが、マラともっと話したかったら、自由に訊いていいぜ」とジャマルは、素っ裸のままのマラを指差した。「俺は、ちょっと電話がかかってくる約束があるんだ。お前たちで、おしゃべりでもしてろ」
ジャマルはそう言って、立ち上がり、階段を上がった。