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69 A Video 「動画」
ダニエルは、乳房があるわけでもないのに反射的に胸を両手で覆った。それを見て彼のガールフレンドのハンナはクスクス笑った。ダニエルは両手を脇に動かした。
「うるさいなあ」
だが、その声も甲高い声で、まるで、10代の女の子がちょっとふくれて文句を言っているようにしか聞こえなかった。
「もう、すっごくキュート!」 ハンナはそれしか言わなかった。それに、ハンナは彼が困ってるのを見て、笑ってしまうのを堪えようとしていたけど、そして実際、大半は隠せていたけど、完全に堪えきることはできず、どうしても笑みが漏れてしまうのだった。
彼は今すぐこの場で、頭からウイッグをかなぐり捨て、顔から化粧を洗い落とし、こんな茶番を辞めたいと思っていた。でも、彼にはこうするほか道はなかったのである。すでに、同意していたし、ハンナの気ちがいじみた計画に従わなければならなかったのだった。唯一、気休めとなっていたのは、これはすぐ終わること。たとえインターネットにアップされて永遠に残ることになるとしても、撮影自体はすぐに終わると。
「こんなことで、あのチャンネルを救えると、マジで思ってるのか?」と彼はハンナが運営しているユーチューブのチャンネルのことに触れた。ハンナは、そのチャンネルで主に化粧に関するチュートリアルを配信していたのである。「男が化粧するところなんて、どんな人がみるんだ?」
彼は自分のことを「男」と言って内心、忸怩たる思いだった。彼は男なのだ。どんなことがあっても、その事実は変わらない。
「あたしなら、その質問であなたが言いたいことと、まったく同じことをそのまんま言うわ。あなたに見せた他の動画、見たでしょ?」
「でも、あれは全部、化粧するところだけだったよ。あの男たちは、別に、何と言うか……女の子の服なんか着てないし……」
「あの人たちは外出しないから」と彼女は言った。「アイデアの肝心なところは、あたしがあなたをすごく綺麗にして、誰も、あなたが女じゃないって思わないようにすることなの。と言うことは、あたしたち、ちゃんと外に出て行かなくちゃいけないってこと。だから、さあ、もう着替えて」
「でも……」
「え、ちょっと待って。まさか、尻込みしようとしてるんじゃないでしょうね? これがあたしにとってどんだけ重要なことか、あなたも知ってるわよね?」
「ボクはただ……と、友だちに見られると……それは、ボクとしては……何と言うか……」
「あれぇ? ちょっと待って。あなた、勃起してる?」とハンナは、彼のどう見ても小さなペニスを指さして訊いた。彼は真っ赤になった。そしてハンナはそれを見て、満面の笑みを浮かべた。「ほんとに立ってる! すっごく、可愛い!」
「そんなことないよ!」と彼は言い、股間を隠した。「ぼ、ボクはいつも……これはただ……これは普通の状態の時の大きさだよ!」
「どう見ても、そうじゃないようだけど? ちょっと知りたいことがあるの。ちゃんと聞いて、ダニエル。今のその格好が好きになっても、全然、構わないの。あたしも、しばらく、可愛いガールフレンドがいるっていうの、一種、とてもワクワクしてる気持ちなの。それ、分かって」
「ぼ、ボクはこんなの嫌だよ。本当に」
「そう。いいわ」と彼女は言った。そして、彼の股間に向けて頷いて続けた「でも、彼は同意していないみたいよ。ねえ、これはもう起きてることなの。だから、パンティを履いて、あなたのために揃えておいた可愛いドレスを着て、一緒にダンスに行きましょう。それに、もし、あなたが今晩ずっと良い子でいてくれたら、帰ってきた時、あなたに特別のサプライズ・プレゼントをあげるんだけど?」
「さ、サプライズ? どんなサプライズ?」
彼女はまた笑顔になった。「いま言っちゃったら、そんなにサプライズにならないでしょ? さあ、その可愛いお尻をパンティで包んで。撮影してアップしなくちゃいけないんだから」
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69 A slip of the tongue 「口を滑らす」
「あたしのこと、嬉しいと思ってくれたらいいんだけど。それって、そんなにイケナイこと? あたしって、そんなに普通からズレてる? そうは思わないんだけど」
「嬉しい? お前、マジで言ってるのか? あの女、お前をこんな……ああ、俺は口にすらできねえよ。あの女、お前を、本当のお前とは違うモノに変えちまったんだぜ、アレックス。どうしてそれが分からないのか、オレには分からねえよ」
「あたしとは違うモノ? ふーん。あたしはあたし、前と変わらないけど。正直言えば、変わったのはあなたの方よ」
「俺? 俺って? お前な、何で女みたいにドレス着てるんだ! まるで今から街角に立って男を捕まえに行こうって感じの格好をしてるじゃねえか」
「え、あ、あたしの仕事のこと知ってるの?」
「な、何だって?」
「あ、チッ。いいから……今の忘れて……」
「いやダメだよ。何言ってんだよ。お前はそんなんじゃねえよ。そうだろ?」
「スタン、忘れて。あたしは話したくなかったの。あたしが言ったこと忘れて」
「まるで、お前が実際に本物の娼婦として働いてるみたいに聞こえたぞ! そんなこと、聞き逃すわけにはいかねえよ。お前は俺の弟だ。お前のことを心配してるんだぞ……」
「ありがとう! 本当にありがとう、スタン。本当のことを知りたい? 実は、そうなの。あたしは売春してるの。それを聞きたかったんでしょ? あたしはおカネのために、知らない人のおちんちんをしゃぶってるの。知らない人にアナルをやらせているの。毎晩。それを聞きたかったんでしょ? 違う?」
「なんてこったよ……お、俺は……なんで……なんでこうなった?」
「分からないわ。あたしはただ……何と言うか、始まりは女の子たち。ヘザーとあたしはおカネが必要だった。そしてヘザーは彼女の上司と一緒にこのことを仕組んだわけ。その後は、もう、日常的なことになって。知っての通り、毎晩、違った女たちがあたしのところに来て、泊まっていった。レズビアンの女性たち。みんな、相手が欲しかったのよね。あたしも楽しかったわ。最高とは言えないけど、良かった。でも、ヘザーはもっと儲ける方法を見ていたのよ。相手を男に変えたら、収入を倍増できるって。当然、あたしは抵抗したわ。でも、そうしたら、ヘザーは女の客の予約を断り始めたの。家賃とか光熱費とか、支払期限が迫っていた。そして……とうとうあたしは同意した。その後は転げ落ちるように。男の客は週にひとりだったのが、いつの間にか、週にふたり、週に3人……気がついたら、お客さんは全員、男になっていた」
「なんてこった」
「ええ。でも、おカネにはなるの。それにヘザーが言うには、1年か2年したら辞めてもいいって。そうしたら、何もかも、元通りになってもいいって」
「マジで信じてるのか?」
「もちろん。信じなきゃやってられないわ。信じなきゃいけないの」
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69 A new life 「新生活」
眠りから覚め、ボクはしばたたかせた。すぐに何かおかしいと思った。それが正確になんであるか指し示すことはできなかったが、何かが欠けている。震えるほど恐ろしい事態が起きている感じだった。
「さあ、始まりよ」と聞き覚えのある、独断的な声が聞こえてきた。ボクはすぐに、その声の持ち主はボクの元妻だと分かった。霧が晴れるようにゆっくりと視界がはっきりしてくるのに合わせて、ボクは声の方に顔を向けた。にんまりと笑う彼女の顔を見て、本能的な恐怖心にボクは喉を詰まらせた。前に彼女の笑顔を見たのは遠い、遠い昔だった。そして、その時ですら、彼女の笑顔はボクに向けられたものではなかったのである。
「い、いったい何が?」 ボクは勇気を振り絞って声を出した。すぐに声が変なことに気づく。ボクは咳払いをして、もう一度、同じことを言った。そして、声を出した途端、ボクは両手で自分の口を塞いだ。これはボクの声じゃなかった。声が高すぎる。あまりに女性的すぎる。
それを見て、彼女はいっそう嬉しそうな顔をした。「あなたが最初に何に気づくか、興味を持ってたわ。確かに、声が最初だろうっていうのは一番あり得ると思ってたわよ」
背筋にブルブルと悪寒が走った。元妻の顔に広がる、明らかに悪魔的な表情のせいもある。でも、どうしても震えてしまう要因がもうひとつあった。寒さだ。ボクはほとんど素っ裸で、下着がひとつだけ。それも、膝のところまで下げられていたのだった。
頭の中、ゆっくりと注意力が回復してくるのにつれて、ボクは他のことにも気が付き始めた。奇妙すぎることばかり。胸に感じる奇妙な重み。肩をくすぐる長い髪の毛。マニキュアを塗った爪。でも、ボクはすぐには自分の状況を本当の意味で把握したわけではなかった。下を見て、乳房がふたつ胸に揺れてるのを見るまでは。
それを見た瞬間、ボクは甲高い悲鳴を上げた。その悲鳴は、ホラー映画の新人女優が発するような金切り声だった。
「ぼ、ボクに何をしたんだ?」 乱れた息づかいをしつつも、何とか言葉を発した。
彼女は高笑いした。あの笑い声、とても人間の声には聞こえなかった。「見て分かるんじゃない? あなたを変えたのよ。完全に。後戻りできない形で。昔のあなたは、もう永遠に戻らないわ」
「お、お前……ぼ、ボクは……こんなの可能なわけがない!」 そう言ったけれど、証拠は明らかに彼女の味方をしていた。
彼女は手を近づけ、ボクの頬を軽く叩いた。「あら、でも、この通り、可能なのよ。おカネはかかったわ。難しいことだった。それに、倫理にも反するしね。でも、この通り、完全に可能なの。催眠の部分が一番難しかったわね。でも、それは必要なことだった。あなたは自分自身の意思でこうしてると、すべての人に信じてもらう必要があったから。そして、事実、みんな信じてくれたわ。みんな、あなたが生涯の夢を叶えたって思ってるわよ」
「ど、どうして……なんで、こんなことを?」
「それって、明白なはずだけど? と言うか、鏡で自分の姿を見てみたら明白になると思うけど? あなた、彼女そっくりになってるでしょ? あなたが浮気した、あのアバズレとそっくりじゃない? 顔は完璧にはできなかったわ。手術には限界があるし。でも、充分、似せられたと思ってるわ。それに、あなたの昔のアイデンティティが消え去ったことにも気づくでしょうね。おカネも全部。消え去ってると。今、あなたはただのウエイトレスなの。彼女と同じね」
「ぼ、ボクはこんな……こんなの間違ってる」とボクは自分の新しいカラダを触りながらつぶやいた。自分自身の乳房を抑えながら、柔らかく滑らかな肌に手を這わせながら、ボクは驚くほかなかった。
「そうよ。間違ってるわよ。そんなこと、どうでもいいでしょ。一番いいところは、あなたが本当の自分が何者なのか、誰にも言えないというところ。あなたは、可愛いエロ女のように行動することになる。あの女と同じ。事実、そうなってるしね。でも、明るい面もあるわよ。あなたはもはや忠誠心があるフリをしなくても済むの。誰とでも、ヤリたいと思った人とヤッテいいの。まあ、もちろん、相手は男ばっかりになるでしょうね。最近、女には興味を持たなくなっているようだし。でも、セックスの相手には事欠かなくなったのは事実よ」
ボクは何を言ってよいか分からなかった。誰だってそうなると思う。
「じゃあ、もう、服を着て。仕事に遅れるわよ。フーターズ(
参考)って遅刻に厳しいんでしょ?」